向井3
「う」の形をしているから「うえ」、すなわち上弦の月。「し」の形をしているから「した」すなわち下弦の月。そう教わったのは何年前だったか。上弦の月は右半分が明るいから、夜には南中から沈むまで見ることができ、下弦の月は左半分が明るいから、夜の間に地平線から昇って南中に上るまで見ることができると気付いたのは、何年前だろうか。俺はそんなことを思いながら、体育館の明かりをバックに傾きつつある上弦の月を見上げている。
あいにく、体育館には先客がいた。いや、いることは承知していたが「一緒にやろうぜ。」と気安く話しかけるのも億劫になるほどの奴らがコートを占領していた。そういえばそんなこと言ってたな、と昼間小耳にはさんでいたことを思い出した。これから始まるのは、退屈しのぎのゲーム。そんなものに俺は付き合いたくはない。
しかし、このままあの屋上に帰るのも今さらな気がしたので、そのまま体育館留まった。結果、始まった練習試合はあまりにも呆気ないものになってしまった。さらに、この試合が別のゲーム、つまり、あいつらの真の目的のための起爆剤であることを、何となく察してしまった。面倒なことになりそうだな、と思わず呟いてしまった。
さて、どうするか。とりあえず帰るか。俺は光の領域から先の見えない暗闇の領域、儚い月明かりのみが照らす道に足を延ばす。
「ねえ、どこに行くの?」
俺は思わず震え上がってしまう。こんな遅くに家庭教師はお断りだ。意を決して振り返ると、体育館から漏れ出る光の中に少女が立っていた。
うれしいことに、少女は先程の数学少女とは別人だった。先程、体育館をうろちょろしている奴がいると思っていたがこいつだったのか?
肩にかかるほどのやや茶色がかった髪。顔は暗くなっていてよく分からなかったが、テレビでよく見る女優のような、まるで作られたような美しさがあった。俺の表現では「実物ではなく写真に映る美しさ」ということだが、伝わるだろうか?
俺は黙って少女を見続ける。しかし、少女は目をそむけることなく、こちらを見返している。どうも落ち着かない。こちらが先に目をそむけてしまう。一応断っておくが、一目ぼれではない。この少女には何かがある、と何となく思ってしまう雰囲気が漂っていた。
「逃げないよね?」
少女は一歩こちらに近づく。こちらに光の領域が伸びてきて顔を見られるのでは、と思ったが、さすがにそんなことはなかった。俺は安堵し、一歩後退していた足を戻す。
「逃げる?何の話だ?」
俺は帰るだけだ。
「さっき、君は悲しんでた。望んでいないことに直面しそうで、どうしようか悩んでた。」
少女は二歩、三歩とさらに歩を進める。さすがに一歩後ろに下がる。
「分かったような口をきくな。おまえは人の心でも読めるのか?」
少なくとも、俺はそんなことは考えていない。俺は冷静に答えるつもりだったが、少し声に力が入ってしまった。震えてさえいた気もするが、寒さのせいだといえばそう捉えられないこともない。
「けど、今の君は何も感じてない。もう、どうでもいいと思ってるのかな。」
「何をだ!」
俺は暗闇から出て、少女に歩み寄り、胸倉をつかもうとする。暗闇から抜け出たとき、俺は伸ばしていた手を止めた。少女は動じることなく、鳶色の目でこちらを見続けていた。それこそ、何にも関心がなさそうな目で。
「自分の気持ちくらい自覚してほしいんだよね。」
少女は先程までの清楚な雰囲気とは打って変わって、どこか陽気な雰囲気を醸し出していた。暗闇が、俺を惑わしたのか。
「君、名前は?」
少女は伸ばしたままになっていた俺の手をおろしながら言った。少女の手はすっかり冷えきっていた。
「向井。」
「楓。」
一瞬、何のことだか分からなかったが、どうやら名前らしい。俺の名前が「向井」で、少女の名前が「楓」。
楓はそれだけ言い残すと、さっさと暗闇に消えて行った。待て、と俺は声に出し後を追おうとしたが、暗闇の先には楓の姿はなかった。俺は一人、光の舞台に取り残される。俺の気持ち?そう思った途端に体育館の明かりが消え、周囲が暗闇に溶けた。