蛍3
「おい、蛍!おまえ、ふざけてんのか!」
体育館に入ると、いきなり御挨拶といわんばかりに怒鳴り声を浴びせてきた。無理もない。もう夜の入り口が見える時間帯だ。呼ばれてからざっと二時間ぐらい過ぎたことになる。それと同時に、体操着の袖に「武藤」と書いてあることに気付き、こいつの名前が武藤だったことを思い出す。
「こんな遅くまで何してたんだ?」
まさかずっと着替えてたんじゃないよな、と武藤が言うと周りの取り巻きが小馬鹿にしたように笑う。武藤はバスケ部の部長というわけではなかったが、その実力はなかなかのもので、公式試合には必ず出場し、点数を稼ぐ猛者だった。もっとも、うちの高校が強豪校になったということはないが。
「まあ、いい。今から最後に軽く練習試合をしようとしていたところだったんだ。それに参加してくれ。」
武藤がそう言ったあと号令をかけると、なんだかだるそうにではあるが、皆、配置についた。すると全身が、まるで頭の上から足の先まで鉄のパイプを挿入されたように硬くなるのを感じた。ああ、緊張しているのか、と感じたのはその後だ。
「まあ、練習試合だからな。お手柔らかに頼むよ。」
武藤は軽く肩をたたくと、自らも配置につく。こころなしか、武藤が不敵な笑みを浮かべていたように見えた。
おや、と僕はそこで違和感を感じた。武藤の顔が見える、ということは、武藤は僕の敵だ。味方ならまだしも、敵のメンバー、すなわち、単なる数合わせのためにあそこまでしつこく僕を誘うだろうか?
その考えが頭を占めたのはほんの一瞬だった。何度も言うが、僕はインドア派だ。なぜ逃げなかったんだ。今はそれだけが僕の頭を占めている。ホイッスルが鳴る。ボールが一定の回転速度で宙を舞う。
「おいおい、手を抜いてくれとは言ったが、ド素人のプレーをしてくれとは言ってないぞ。」
武藤が顔を抑えてうずくまる僕の前に立ったのが分かる。鈍い痛みがまだ引かない。口の中を切ったのか、生温かい液体が舌にまとわりつき、鉄の味がする。武藤の背後でヒソヒソ話と小さな笑い声が聞こえる。
「おまえホントに一生懸命だったもんなあ。追いつきもしないのに全力でコートの中走り回ったり、味方にパスしようとしてボール取られたり、ドリブルしてたらボールこぼしたり。ホント傑作だったよ、なあ。」
武藤がそう言うと、今まで貯めこんでいたのだろうか、笑い声が一気に破裂した。体育館に嘲笑が響き渡る。耳によくない。嘲笑や馬鹿にしている笑い声の周波数は不愉快と共鳴する。
試合は案の定というべきなのか、悲惨なものだった。20対8という結果の話ではない。僕は試合中、敵からも味方からもマークされていた。敵がボールを奪いに来るのは当たり前だが、味方の奴が意味もなく不意にパスをしてきたり、シュートを妨害したり、僕の進路の邪魔をするのは、試合としてどうなのだろうか。最後のパスが文字通り目に見えないスピードで顔面に飛んできて、ゲームセット。現在に至る。
ようやく、痛みが引いてきたので顔を上げる。武藤はこちらを振り向くと、顔から笑みを消し、威圧的な表情になった。
「一回上手く出来たからって調子に乗るなよ。」
その言葉がきっかけで、周りからまた嘲笑が漏れる。僕はそこで気がついた。こいつらは、見せしめをしたのだ。こいつは大した事のない奴だ。勝手に天才という存在を作りだし、徹底的に打ちのめす。そして、束の間の優越感に酔いしれる。日常に飽きた奴らがよくやりそうなことだ。
別にこんなこと、何とも思わない。しかし、目の前に薄汚れた優越感にはらんだ鈍く光るいくつもの眼光を浴びせられるうちに、漠然と心に霧のようにもやもやとこみ上げてくるものがあった。
面倒なことになりそうだ。武藤から視線をそらすと誰かが体育館の入り口から去っていくのが見えた。