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ホタルイカ  作者: 大藪鴻大
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楓1

「武藤はお客さんにお茶も出さないの?」

 武藤は赤い色をカッと滲ませた後、また暗い暗い色になった。舌打ちが聞こえるが、よわよわしい。

 私は和室で勝手に座布団に座っている。今の一成は白い紙に黒い鉛筆でぐちゃぐちゃに塗りつぶしたような色をしている。マンガなどでよく見る、混乱しているときなどに使われるマークによく似ている。

 武藤は乱暴に座るかと思ったのだが、静かに足を曲げ、腰をおろした。正座をして座っている姿は、なんだか武藤らしくなかった。

「で、何の用だよ?」

 さっき言ったじゃない。そう怒鳴りたいのをぐっとこらえる。

「あなたは向井君をいじめていたでしょ。スポーツとはとても言い難い遊びをきっかけにして。」

「蛍に聞いたのか?」

 武藤が目を見開く。私はこの質問には答えないことにする。いえ、一部始終黙って見ていました、とでも言えば武藤と同じ立場になりそうな気がしたからだ。

「そして、ある日、いつものようにいじめていたら、向井君が急変した。あなたたちは全く歯が立たず、あっという間に全滅。」

「おお、そんなことがあったんですか。きっかけは何だったんですか?動機次第では、これは英雄伝ですよ。」

 一成の色が森に日が差し込んだようになった。あきれた。今知ったの?あんなに学校で噂になっていたのに。

「それを知りたいのよ。ねえ、あなた近くにいたんでしょ?何か気がついたことない?」

 武藤にそう質問したとき、武藤の色は急変した。星ひとつない真夜中に、一人海の真ん中を漂っている、そんな色になっていた。体も小刻みに震えている。

「大丈夫ですか?心臓発作じゃないですよね?」

 一成が慌てて駆け寄る。武藤は一成が伸ばしてきた手を払いのける。大きい体格の武藤が、これでもかというくらい小さく、小さく丸まっている。

「一体どうしたのよ。」

 私が近寄ると、武藤が急に顔を上げた。私は思わず顔を引く。近くで見ると、髭が伸ばしっぱなしだった。整えている様子もない。

「おまえ、蛍の友達か?」

 私は一成と顔を見合わせる。色を見る限り、私と同じ思いらしい。

「友達っていうか、なんというか。」

 そもそも、私の中では「友達」の定義がはっきりしていない。一成も同じらしい。

「運命共同体?」

 仕方がないので、杉山の言葉を借りて返答することにした。それを聞いた武藤は呆気にとられていたが、すぐに真剣な表情に戻った。

「だったら、今すぐ縁を切れ。」

「なんですか、それ?新手のいじめですか?そんなこと命令される筋合いはありませんよ。バカバカしい。もう帰りましょう。話になりませんよ。」

 珍しく一成が怒りを露わにする。私は帰ろうとする一成を引き留める。そして、武藤に向き直る。

「どうして?」

 少しの沈黙の後、武藤は意を決したように話しだした。

「実は昔、俺は犯罪者を見たことがある。家族で旅行に行ったとき、たまたま出くわしたんだ。無差別殺人犯が捕まるところを。」

「ああ、知っていますよ。あれは恐ろしい事件でしたよ。人生で初めて世の中に絶望しましたよ。」

 一成は当時のことを思い出したのか、赤く、そして黒い色が滲みだしてきた。何でそんな恐ろしい事件を目撃した人間が、いじめなんてしてるのよ?作り話なんじゃないの?

「逮捕の瞬間なんて、なかなかお目にかかれないだろ?だから、俺は人込みをかき分けて出来るだけ犯人に近づいたんだよ。そして、犯人の顔を見た。」

「犯人は確か、どこにでもいそうな中年男性でしたよ。」

 そうだった気がする。そのニュースを見たあと、小学生だった私は数カ月、道行く中年男性が通り魔ではないかと警戒しながら、文字通り顔色を見ながら登校していた時期があった。

「それと向井君と何の関係があるのよ?」

 そう言うと、武藤は短く、恐怖の叫び声を漏らし、またうずくまってしまった。夜の海に飛び込んだような色だ。

「初め、その犯人の目は脱力感が滲みだしていた。でも俺と目があったとき、目の色が変わったんだ。全てを吸いこむ闇の色に。」

「あんたの勘違いじゃないの?」

 武藤の言葉に、私は苛立ちのようなものを感じていた。なんで、あんたの見た色と私が向井に見えた色が一致するのよ。この一致を、武藤の語彙の貧困さのせいにしたかった。

「あいつのあのときの目はそれと同じだった。あれは人殺しの目だ。」

「そんなはずないですよ。蛍君が人殺し?あり得ないですね。」

「あいつが犯罪を犯さないと言われる方が無理だ。あいつが窃盗犯なんだよ。このままだと、俺は殺される。」

 かろうじてそう言うと、武藤は叫びながらうずくまってしまった。深い深い底なしの深海に沈んでいく。

 なるほど。あの日、武藤がいないにもかかわらず向井の暴力事件が解決に向かっていた理由はここにあったのか。武藤はこれ以上、向井を刺激したくないのだ。人殺しであることと窃盗犯であることが安易に結びつく思慮の浅はかさはともかく、武藤が向井を恐れているのは間違いない。

 私は立ち上がる。一成も無言のまま立ち上がり、先に出ていく。どこが顔でどこが足か分からなくなった肉体を見下ろす。

「人を馬鹿にするのもいい加減にしたら?あんたが思うほど、向井は弱くないわよ。どっちかというと、犯罪を起こしそうなのはあんたでしょ。」

 本当にそう?確かに、向井は弱くない。でも、向井が臆病なのは真実だ。臆病さが狂気を呼ぶことは十分あり得る。


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