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ホタルイカ  作者: 大藪鴻大
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向井2

 季節によって空の色は違う。夏は透き通った、すっきりした青色で、入道雲のような柔らかな白の塊がその空にさらなる広がりを持たせる。冬は余計なものが含まれていない、こざっぱりとした青色で、筋のように消えかかった雲が空に深みを持たせる。

 では、春と秋はどうか。残念ながら、上手く表現できない。しかし、例えるならば春は羽化したばかりの蝶が羽を乾かし、徐々に色づいていく華やかな空、秋は最後の力を振り絞り鳴く蝉が徐々に力尽き、細い声になっていく儚い空、とでもいえるだろうか。

 ここまで考えると、風が頬に当たった。そこで俺はこんな風で身震いするほど詩的になっていたことに恥じらいのような、幻滅のようなものを感じる。

「ただ単に、中間だって言いたいんだろ。」

先程の自分の詩に批評を加える。

「しかも、主観的だ。」

 昔、俺に言語の重要性を熱弁した奴がいた。言語がなければあの空の青さも上手く伝えることはできない、と。では尋ねるが、俺が見る空とおまえが見る空の色は同じなのか?今の説明で俺の見る空の説明は不十分なのか?そう思うなら、添削してみろ。本当に俺の見る空を他人に伝えることはできるのか?目の前にいないそいつに問いかける。

 しかし、そんな思考も途切れる。今はおよそ6時。春は曙、というが夕暮れも悪くない。赤く染まった街の上には、決して赤くは染まらない白い半月が浮かんでいる。このような空を鑑賞するためにこれ以上無駄な思考は必要ない。俺は寝っ転がり、腕を頭の後ろに回し、空を拝む。

「やっぱりここにいた!」

空耳だ。気にするな。俺は赤く染まった空と少し黒味を帯びた雲の筋を拝む。

「ねえ、やっぱり教えてよ。」

 だから、この空を、俺だけの空の色を伝えることはできないと確認したばかりだろう。俺は夕日が沈む空の反対側の空が青黒くなっていることに気がつく。間もなく、夜が来る。

 次の瞬間、空から無数の文字が降ってきた。しかし、文字が降ってきたと判断できたのはほんのわずかな間だけで、その後は視界が完全に遮られた。もう夜になったのか、とは流石に思わない。顔に、主に鼻に鈍い痛みを感じる。

「いい加減にしろよ、向井。」

 幼さが残るが、よく澄んだ声が暗闇の向こうから聞こえる。その言葉使いからして相当憤慨していると思われる。俺の顔を覆っていると思われる本を手でどける。すると、辞書並みの厚さをした数学の問題集が、ひとりでに音を立てて閉じる。

「授業が全部終わったからもう一回チャレンジしてみようと思っていたのに。君、すぐいなくなっちゃうんだもん。」

 授業が終わってもホームルームまでは時間がある。その間、俺は多分教室から出ていなかったはずだ。だからといって、「その間に質問しろよ」と言ってはいけない。彼女も友好関係を築くのにいろいろ忙しいのだ。授業中に話しかけられることに嫌悪感を覚える俺でも、休み時間の雑談は不可欠だ、ということは承知している。しかし、そんなことよりこれは一大事である。

「どうしてここだと分かった?」

 誰にも干渉されない、俺だけの場所。ありきたりな気もするが、立ち入り禁止の学校の屋上。学校の屋上へ続く扉には施錠してあるのが一般的な社会常識であり、ほとんどの学校はそうなっているはずだ。しかし、この学校は運のいいことにその鍵が壊れており、さらには屋上に近づくものが誰一人としていないため、鍵が壊れていることに気づかれず、ここは秘密基地としてはふさわしかった。

 もう一度言っておくが、鍵は壊れていた。何となく見つけて、こじ開けようとしたら簡単に壊れてしまったわけではない。

 それが見つかってしまった。

「だって、一人で人のいない場所に向かって歩いていたら、そりゃあ目立つでしょ。」

 目立つはずはない。正確に言うと、誰かの視界に入っても気がつかれないはずだ。誰も俺に興味などない。だから皆、素通りする。見逃す。先程まではそのはずだった。そのつもりだった。

「それにしても、ここ、気持ちいいね。私もこれからここに来ようかな。」

 冗談だろ。確かにここの風は特別澄んでいるようにも感じる。何も含んでいない透明な風。そして、時間ごとに変わっていく上空のカンバス。だからこそ、一人占めしたい。だれかと共有できるとは思えないし、共有することで著しくその価値が低下してしまう気がした。

「なによ、その嫌そうな目は。」

 その言葉に俺は多少驚く。感情が表に出てしまったようだ。眉間に皺が寄っていないか、指で触って確かめる。夕焼けの空の上部に小さく光り輝く星が見え始めた。

「冗談に決まってるでしょ。誰がこんな退屈な場所に好き好んでくるのよ。」

 あっ、君がいたか、と目の前の少女はつぶやくが、反省しているようには見えない。むしろ、いたずらに成功して喜ぶ子供が見せる笑みを見せている。

「それより、早く教えてよ。」

 俺は、心になにかもやもやするものを抱えたまま、少女が胸の手前で両手で開いている辞書みたいな問題集を覗き込む。やはり、「三角関数の積分」の項目のページに大量の「?」が散らばっている。しかも、気のせいか昼間のときより増えているように見える。

「何が知りたい?」

 そう言ってみたものの、どうしようもないことを聞いてくるのではないかという疑念を持っていた。例えば、サインの積分はなぜコサインなのか、などである。

 えっと、と少女は「?」だらけのページを見ながら、手を口元に当て考え込んでいる。

「なんでサインを積分するとコサインになるのさ?」

「知るか。」

 即答するしかない。俺はこの少女から逃避するつもりもないが、ただ何となく金網のほうに歩いていく。薄暗くなり始めた街のあちこちにぽつぽつと明かりがともり始めている。暗闇に一つ一つ無規則に光が灯るのを見るのも、なかなか面白い。

「分からないからって逃げないでよ!」

 少女の怒声、いや罵声が聞こえるが気にしない。太陽もだいぶ沈んできた。体育館の明かりが目に入ってくる。もうそろそろ部活動も終わるころだろう。実際、グラウンドにいる学生たちは後片付けに入っている。黒い影の塊が薄暗いグラウンドからこちらに向かって進行してくる。

「ねえ、聞いてるの?」

「悪い。ちょっと体育館に行ってくる。」

 俺は少女に背を向けていたが、どんな反応をしたのかは分かった。凍りつく。そして、

「今さら体育館に何の用があるのよ!」

 怒り狂った声が飛んでくる。悪いが数学を教える気はなくなった。マラソンをしているとき、音楽は人によって必要かもしれないが、教科書は絶対にいらない。それだけだ。


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