藤10
夕陽が山の端に映える。運動場には黒い影がひしめき合って、あっちに行ったり、こっちに行ったりを繰り返している。雀ほどの大きさの鳥が僕の視界の右から現れ、左に消える。僕は待っていた。
「ねえ。『烏』が誰か分かったって本当?」
屋上に入ってくるや否や、やや興奮した声を発する。その人物が近づいてくるが、僕は振り返らない。
「ええ、分かりましたよ。けれども、僕が『烏』が誰かを言う前に、協力してもらいたいことがあるんです。」
なになに、何でもするよ、とその人物は早口で言う。僕は眼鏡を押し上げる。
「僕の手帳を返してください、美夜さん。」
美夜さんは口を閉じる。
「返したら、教えてくれる?」
先程までの明るさが全くなくなったわけではないが、声のトーンは大分暗くなった。僕は顔を見ているわけではないが、表情も幾分か曇っただろう。
「あなたが僕の手帳を盗んだのですね?」
「盗んでないよ。落ちていたから拾っただけ。機会があったら返そうと思っていたの。」
「嘘ばっかり。」
無臭の風に桜の香りが乗る。振り返ると楓さんがこちらに近づくのが見える。
「あんた、一成のカバンから盗んだでしょ。知ってたんでしょ、一成が 『烏』を追っていたってこと。あんたは『烏』の情報が欲しくて、一成の手帳を盗んだ。」
「あんた何なのよ。」
美夜さんが楓さんに詰め寄る。楓さんは動じることなく、美夜さんを見つめ返している。もしかしたら、心を読んでいるのかもしれない。
「証拠はあるの?私が盗んだっていう証拠が。」
美夜さんは怒りのためなのか、小さな体を震わせる。僕は振り返る。手を美夜さんに伸ばす。
「返してください。」
美夜さんの顔が歪む。歪むと次に、笑みを浮かべる。
「君の秘密をばらすよ。」
「返してください。」
僕が美夜さんに歩み寄ると、美夜さんは素早く振りむき、出口に向かって走り出した。出口を出るか出ないかのところで、小さな体が地面に投げ出される。遅れて、蛍君が姿を現す。
「どこにある?さっさと出せ。」
蛍君は地面に倒れている美夜さんを乱暴に立ち上がらせると問い詰めた。その光景はその場の僕たちの動きを凍りつかせるには十分な迫力があった。恐怖のためか、美夜さんは何も言わなかった。僕は蛍君のところに近づく。
「あなたは僕のことを『探偵さん』と言いました。そのことを知っている人はこの世界中に一人もいないはずなんですよ。僕はネットで事件を解決してましたからね。名前も顔も、誰も知らない。解決する事件も小さなものだから、誰も気にしない。
しかし、あの手帳には『烏』のことだけじゃなくて、他の事件のことも書いてありました。だから、僕はあなたがあの手帳を見たんだと思ったんですよ。」
そこまで話すと、美夜さんが蛍君の腕を振り切った。しかし、もう逃げだすそぶりを見せない。楓さんは美夜さんをじっと見ているだけだった。
「それに、『烏』のことが書いてあったから僕を追いかけて屋上まで来たんでしょう?」
「そういうことだ。早く返せ。」
蛍君がまた美夜さんに詰め寄る。蛍君にしては、少し乱暴の様な気がする。何かに怯えているようだ。美夜さんは抵抗することなく蛍君にされるがままになっている。
すると一瞬、美夜さんの表情に変化があった。まるで、演技しきれずに笑みがこぼれてしまったかのような、そんな顔が見えた。
「何がおかしいのよ。」
楓さんもその変化に気がついたのか、口に出す。すると美夜さんは隠すことなく笑い出した。冷たい笑い声だった。ひとしきり笑うと、蛍君をまっすぐ見た。
「向井さあ、数学教えるのも下手だけど、人間性も大したことないよね。」
次の瞬間、僕は後ろから羽交い絞めにされた。楓さんを見ると僕と同じような格好にされていた。突然の乱入者は合計で4人だ。いつの間にか、美夜さんの体は自由になっていた。
「こんなことしたくなかったんだけど、事情が事情だからさ。手伝ってもらったのよ。だって私、女の子でしょ。」
蛍君は俯く。一体何が目的だ、と言わんばかりの表情だ。その表情を読み取ったのか、乱入者の一人がやや興奮した声で言葉を発する。
「おまえが窃盗犯なんだろ。おまえが『烏』なんだろ。そこの女が言っていたぞ。」
そう言って、美夜さんを指さす。僕は体中の力が抜ける。代わりに、絶望感のような、落胆のような感情が僕の体と頭を満たす。
「何を言っているんですか。蛍君が『烏』なわけないでしょう。」
そう叫んでは見たものの、そんなことが言いたいのではないことは分かっていた。美夜さんの顔が不敵に歪む。先程までの活発な、明るい少女の顔はもうどこにもない。まるで別人だ。
「君がそう推理してたんだよ。書いてあったよ。向井蛍が『烏』だって。」
楓さんが目を見開き、僕を見る。誤解ですって、と僕が言おうと口を開こうとすると体に衝撃が走った。僕は丸くうずくまる。
「ということで、どうします、『烏』さん。このままだと友達が危ないですよ。」
美夜さんが蛍君の顔を覗き込む。あれは亡霊だ。『烏』にとりつかれた亡霊だ。強い思いは霊を生むというが、美夜さんは完全に『烏』に囚われている。何で否定しないんですか、と僕は蛍君を見る。
「黙れ。」
「私にも見せてよ。君、5人相手でも大丈夫なんでしょ?やっつけてみてよ。見せてよ。もう一人の向井蛍をさ。」
場に緊張が走った。乱入者4人は怯えているようだった。もう一人の向井蛍?なんですか、それ?何の話ですか?僕は楓さんに答えを求めるように視線を送ったが、楓さんはどこか空を見るようにじっとしていた。
「黙れ。」
「早くしないと友達が怪我しちゃうよ。それとも、友達のためには喧嘩はできませんか?」
「黙れ!」
そう言うと蛍君は頭を抱えうずくまってしまった。「ちょっと、何よ。泣いてんの?」と美夜さんがしゃがみ込むと、周りで笑い声が起こった。何で笑っているんですか?何でそんな悲しそうな顔をするんですか、楓さん?
僕は出口に視線を送る。ちょうどそのとき、影が飛び出してきた。長い後ろ髪が風になびいていた。




