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ホタルイカ  作者: 大藪鴻大
29/65

藤1

 薄暗い裏通り。散乱するゴミ。鼻につく生臭い臭いとアルコールと酸味の混ざった臭い。数十メートル先には夜とは思えない、いや夜だからこそなのか、人工的な光があふれ、まぶしい。車や人がまるでビデオの早回しのように視界に現れては消える。

 視線を感じる。上を見る。暗くなりきれない空がある。その空に星が浮かぶことは似つかわしくないように思える。

 何かに触れる。いや、触れられる。飛びのいて後ろを見る。そこには前方と同じような光景が広がる。なんだ?誰だ?不気味に思い、足早に光に向かって歩き出す。

 尾行されている。そいつは一定の距離を保って付いてきている。踏み出す足の店舗が徐々に早くなり、駆けだした。上から黒い影が落ちてきた。


 「ねえ。君、大丈夫?」

 携帯に並ぶ文字列が再び目の前に並ぶ。僕は携帯の画面を閉じる。目の前に前歯の目立つ女の子の顔があった。

「さっきから携帯の画面見たまま動かないからさ、死んでるのかと思ったよ。」

「死んでいるとは失礼ですね。」

 僕は、手元のメモ帳に今読んだ記事の日時、場所、状況を書き込む。そのメモ帳には、いままで、『烏』の犯行と思われるものを書きとめているものだった。これは3冊目だ。

 目の前の女の子には見覚えがあった。いつだったか、蛍君が僕に押しつけてきた問題児だった。

 この女の子は「なんでサインを積分するとコサインになるのか?」という知っても仕方ないような質問をしてきた。確か、僕は「意味が分からない。」と答えたと思う。するといきなり何かを叫び出し、手に持っていた分厚い本を僕にぶつけてきた。僕の頭では理解不能な行動だった。

「ねえ、何してたのさ?」

 僕は気にせず立ち上がる。時計を見ると約束の時間をとっくに過ぎている。今頃、杉山君が屋上の冷たい風を浴びながら、「俺たちは『烏』を捕まえるべくして生まれてきたのだ。」と叫んでいることだろう。

「ねえ、何なのさ?教えてよ。」

「すいません。急いでいるので。」

 僕は席を離れる。何かが僕の腕を握る。振りかえると、僕より頭一つ小さい生命体が両手で僕の腕をつかんでいた。僕は目を細め、この女の子を見下ろす。そういえば、僕はこの子の名前を知らない。

「そう急ぐこともないじゃない。探偵さん。」

 女の子が意味ありげな笑みを浮かべる。僕は手を振り払う。そんなに力を込めたわけではないと思ったが、女の子は小さい叫び声と一緒に尻もちをついた。

 周囲にいる数少ない生徒のさりげない軽蔑と好奇心の視線を感じる。僕は一応手を差し伸べるが、女の子は立ち上がることなく、僕を見上げている。

「いったーい。何すんのよ!」

 僕はすぐさま計算する。どうすればこの場から離れられるのか。いくつもの可能性が瞬時に頭に浮かび、比較検討し、消去していく。

「あんたねえ。か弱い女の子に手を出すなんて、どんな神経してんのよ。」

 目の前の女の子は怒鳴り声とまではいかないにしても大きめの声で騒ぎだした。しかし、この閑静な図書室では十分な騒音だった。選択肢が大幅に減ったのが分かる。

「ちょっと、黙ってないで謝ったらどうなのよ。」

 計算できない。僕が計算するよりも早く、この子は次から次へと言葉を発し、可能性をつぶしていく。だから人と話をするのは嫌いなんだ。僕はずり落ちた眼鏡を押し上げる。混乱しているせいか、室内にもかかわらず桜の香りを感じる。

「何を騒いでいるの、美夜さん?」

 その声で僕は顔を上げる。いつの間にか、楓さんが女の子の近くに座り込んでいた。突然のことで美夜と呼ばれた女の子も呆気にとられている。

「何かにつまずいたの?」

 その言葉をきっかけに美夜さんは素早く立ち上がった。それに合わせて楓さんも立ち上がる。

「こいつが突き飛ばしてきたんだって。ひどいでしょ。」

 美夜さんが僕を指さす。確かにそれは事実だ。僕はうなだれるしかない。うなだれたとき、眼鏡がずり落ちそうになるので、眼鏡を抑え、首の角度を調節する。楓さんは美夜から視線を離さない。

「そうなんだ。きっと私が呼び出したから急いでたんだよ。ごめんね。」

「いや、なんであんたが謝るのよ?」

「ところで、数学分かった?」

 なるほど。考えましたね。僕は美夜が楓さんに「いや、やっぱり向井は駄目だね。」などと話しているうちに僕は足早に出口に向かう。僕が図書室から出て、しばらく歩いた後、楓さんが追いついてきた。

「ありがとうございます。楓さん。」

 楓さんは無表情で僕を見ていたが、何か思いついたのか微かに笑った。

「一成のことだから、これも計算してたんじゃないの?」


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