楓7
風が吹く。緑の葉がそれに同調して揺れる。傾きかけた日の光を反射し、その下を通る私たちに投げかける。長いような短いような春休みが終わったばかりの頃は、この校門と校舎をつなぐ道には桜吹雪が舞っている。
しかし今では、地面に泥まみれの桜の花びらが散っていることもない。私は武藤がまた学校に出てきたとき、話しかけなければいけないのだろうか。そう思うだけで気が重くなる。
学校を出て国道に向かって歩き、国道に出たら国道沿いを十分ほど歩く。それが駅に向かうとき皆が好む通学路である。しかし、私は校門を出ると目の前の狭いけもの道のような狭い道に入る。なぜか。私の家はこの近くにあるからだ。そのためか、私は下校友達がいなかった。
けもの道に入ると、左手には竹藪が、右手にはブロック塀が続く。道路は舗装してあるが、あまりにも狭いため、車一台通るのも難しい。それにもかかわらず交通量が多いため、一日に必ず一度は車をやり過ごさなければいけない。
向井蛍は二重人格なのか。この疑問はまだ解決されていない。少なくとも今日、私は「向井」しか見ていない。私は「蛍君」というもう一つの人格を想定しているのだけれども、なかなか見ることができない。「蛍君」を見たのは、武藤たちとのバスケの試合と「向井」が暴れる前の二回だ。
そんなことを考えていると、やがてけもの道を抜けた。広い住宅街に出る。どの家も似たような外見なので、初めてこの住宅街を訪れた人は表札を一つ一つ見て目的の家を探さなければならない。
小学生の子供たちをやり過ごし、自転車に乗るおばさんとすれ違うと、目の前に見知った顔が映った。長い後ろ髪のせいか、遠くからでもすぐに分かった。
杉山だ。塀の上で丸まっている黒い猫を見つめていた。様子を見るために、少し離れたところで立ち止まる。
「なあ、もう大丈夫なのか?」
猫は杉山を見ると、体を伸ばし、塀の向こう側に消えて行った。杉山が頭をかく。色を見ようとしたが、少しぼやけていてよく分からなかった。日課をこなしているときによく見られる色だ。
「こんなところで何してるのよ。」
杉山は文字通り飛び上がった。あまりにも典型的な驚いたリアクションだ。私のいる方とは反対の方向に首を回し、次に私のいる方に向く。
「ああ、楓か。驚かせるなよ。」
「驚かせるつもりもなかったんだけどね。」
どうしてこんなところにいるのよ、と聞こうと口を開く。
「見たまんまだよ。猫と話そうとしたんだ。」
何で分かったのよ、としばらく呆気にとられていたが、どうやら先程の質問に対する答えらしい。
「何それ?そんなことできるの?」
「いや、まあ、時と場合によっては上手くいく。」
杉山は逃げた猫を見つめるようにブロック塀の向こう側を見る。はるか上空を飛ぶ鷹を見るような、そんな色だ。
「エサだぞ、と言ったときはすぐに通じるのにな。今の政治家は情けないよな、とか言っても反応しないんだよ。食い意地張っているんだな。」
それは君の言葉じゃなくて、エサに反応しているんだよ。
「それくらいなら私にもできるよ。」
杉山は意味ありげに笑みを浮かべる。杉山の笑みはいつも意味ありげではあるが、こちらが不快になる類のものではない。
「残念だったな。確かにお前は心を読むことはできるかもしれないが、こっちの言っていることが相手に伝わらなければ会話にはならない。」
作用・反作用だ、と物理の用語をつぶやくが聞き流す。
「そうじゃなくて、私がエサをあげて猫はそれを食べる、という一連の動作は誰にでも出来るってことだったんだけれど。」
「そう、それは作用・反作用だな。でもな、それは人には通用しないぞ。覚えておくんだな。」
杉山がそう言ったところで話を元に戻すことにする。
「どうしてこんなところにいるのよ。まさか猫と話すためじゃないでしょ?」
杉山は待っていました、と言わんばかりの満面の笑みをする。と思っていたが、その予想は外れた。
「まあ、それも理由の一つだけどな。もうひとつ、理由があってな。」
表情の変化もなく淡々と述べた。色を見たが、大きな変化は見られない。
「おまえの家、どこ?」
「楓。」
反射で応えていたが、他に言うべきことがあるのは明らかだった。
「何で私の家を教えなきゃいけないのよ。」
杉山に変な気持がないことは色を見れば明らかだった。けれど、次の瞬間、私は杉山に背を向け走り出していた。




