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ホタルイカ  作者: 大藪鴻大
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楓2

 電話の音一つならない職員室の入り口。向井は机が密集するいくつかのテリトリーのうち、職員室の真ん中にあるテリトリーにいた。教頭先生と生活指導の先生、それに私たちのクラスの担任の先生である海東先生がいた。武藤たちはまだ来ていないのか、そこに姿はなかった。

 体格がよく、日に焼けた肌が目立つ体育の先生でもある生活指導の先生が腕組をして向井を睨んでいるのとは対照的に、教頭先生は小さい体をさらに小さくして、怯えているような心配しているような目つきで向井と生活指導の先生を交互に見ていた。教頭先生に視点を合わせると、どうしても長身の海東先生の顔が視界に入りきらなかった。

 海東先生は何の反応もなく、それこそ何も感じていないような無に近い色を発してその場に立っていた。担任なんだから、もっと責任感と使命感を持ってくださいよ、とは思わなかったが、その色はいくらなんでも落ち着きすぎのような気がした。

 肝心の向井は、罪悪感が丸出しの色を発していた。どうやら今は『蛍君』らしい。杉山は職員室のドアを少し開ける。

「確かに武藤たちの生活態度はよくなかった。おまえの言うとおり、カツアゲもしていたかもしれない。でもな、だからと言ってあそこまでする必要はないんじゃないか?」

 職員室が静かなせいか、ここまで声が聞こえてきた。生活指導の先生は、厳かな外見からは想像できないほど静かに淡々と述べた。教頭先生は、なぜかずり落ちてきた眼鏡を慌てて押し上げる。蛍君は深々と頭を下げている。反論すらしない。

「おい、見たか。やっぱり蛍は男らしいよな。」

 私はその発言に違和感を持つ。頭を下げてペコペコする姿を見て、かっこいいと思う人は滅多にいないのではないだろうか。

「どこが?」

 思わず聞いてしまう。その語調は自分でも分かるくらいに幻滅の色が含まれていた。しかし、杉山はさらに誇らしさを増した語調で続けた。

「あいつはな、意味もなく喧嘩をするような奴じゃない。分かるか?あいつが喧嘩をするときは、何か理由があるんだ。それを守るためにあいつは戦う。そして、後始末もああやってしっかりやり遂げる。」

 杉山は顎で向井をさす。生活指導の先生が何やらまた説教をしていたが、通り一遍の内容だったので聞き流してしまった。

「理由があるなら、堂々とそれを言えばいいじゃない。なのに、あんなにメソメソして。あんなのがかっこいいと思うの?」

 杉山は顔に笑みを浮かべる。これは嘲りでも何でもない。まぎれもなく、勝利の笑みだ。

「そこだ。それがあいつのすごいところなんだ。あいつが何考えているのか俺達にはさっぱり分からない。何のために拳を振りかざすのかもだ。でも、それはな。」

 杉山が人指し指を私の前に立てる。高まった感情をその指一本に集中させたかのようにその一本の指は力強かった。

「あいつの次元が高いからだ。」

 決まった、という声が聞こえるかと思えるほどの静かな間があった。杉山からは誇らしさに照れが滲みだした色を発していた。私はため息をつく。

「馬鹿じゃないの。」

 男の子はこういった抽象的で一見かっこいいセリフを言うことに憧れるのか、似たようなセリフをよく耳にする。しかし、それは現実とは大きく異なっている場合が多い。向井にしたって結局は逃げているのだ。自分が傷つかないように、面倒なことに巻き込まれないようにただ逃げている。

「あのね。カッコイイセリフの後に言うのもなんだけどさ、向井はただ面倒なことから逃げているだけだから。」

 それを聞いた杉山は全く動じていない。それどころか、さらに誇らしさを滲ませつつ、反論しようと口を開く。それと同時に職員室のドアが大きく開いた。大きい影がドアを文字通りくぐり抜けて出てきた。

「君たち、ここで何しているの?」

 その長身の影は海東先生だった。すっかり職員室から目を放していたので気がつかなかった。海東先生は怒っているわけでもないのだろうが、快くも思っていないようだ。いや、その変化のない表情からは何も読み取ることはできなかった。

 私は何も言わず頭を下げ、杉山を引っ張ってその場を離れる。腕を引っ張られている杉山は、息を吸うと大きな声で叫んだ。

「俺達の蛍を返せ!」

 なんだか自然保護団体みたいだ。海東先生は訝しがるように目を細めたが、私たちを追いかけることはなく、そのまま職員室に姿を消した。


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