楓1
いつもと同じ朝だ。別に何かが起きることを期待していたわけでもない。でも、あの出来事の後の朝だから雪ぐらい降っていてもいいかな、と思ったのが正直な感想ではあった。カーテンを開ける。眩しいくらいの青空だ。私は登校の準備を済ませると下に降りて行く。
洗面台で歯を磨き、顔を洗い、髪を水にぬらしドライヤーでセットする。食卓につくと、母が焼いてくれたトーストにお皿に乗っている目玉焼きをのせ、口に運ぶ。さらにベーコンがあればなお文句はなかったのだが、わがままは言えない。台所にいる母の背を見る。今日も春の木漏れ日のような穏やかな色を発している。不満なんて何もない、そんな色だ。
食パンをすべて食べると私は椅子に立てかけてあったカバンを手に取り席を立つ。
「いってきます。」
しかし、すぐには返事は返ってこない。私が玄関まで行き、靴を履いているときになるとタイミングを見計らったように母が出てきて言う。
「いってらっしゃい。」
いつものことだ。私は振り返ることなく、玄関を後にする。
私は学校につくと真っ先に向井蛍を探した。昨日、あんなによわよわしかった色が急に全ての色を吸収したような黒色になり、私を見た途端にこっちが悲しくなるような青のような淡い色になった。向井蛍。薄々感じていたが彼は只者ではない。球技大会の練習と武藤との練習試合でのプレーの違い。あれは運などでは説明できない。それに昨日のあの豹変ぶり。二重人格。私はそう結論づけた。
「なんだ、あんた?」
気がつくと向井の席の前まで来ていた。私は声のする方に顔を向ける。しかし、声の主は机に顔をつけたまま上げようとしない。そのままの姿勢でこちらをもの珍しそうに見ている。なんだか期待に満ちた色が見える。それも、恋愛関係に対する野次馬の期待の色だ。
「もしかして、蛍目当て?」
私は返答に困った。本来の目的である「少し話があって。」という返答も、すぐに思いついた「渡したいものがあるんだけど。」という返答もこのような期待を含んだ人に言ってしまえば間違いなく勘違いされる。
「いやあ、なかなかやるな、蛍も。全然仕事しねぇなと思っていたら。そうか。そうだったのか。」
私がしばらく黙っていると、その男は勝手に納得してしまった。いや、誤解されては困る。
「いや、違うの。ちょっと蛍君に用事があって。」
私は慌てて返事をしたが、案外先程まで考えていた返答よりもずいぶんいい返答ができた。しかし、男から発する色は変化しなかった。むしろ強くなった。「用事ねえ。」といやににやにやした表情を浮かべる。
「蛍なら職員室だよ。あっ、そうそう。昨日すごいことがあったらしいんだよ。」
男の色が赤のような興奮した色に変わる。アクション映画を見た後の少年の色だ。多分、私はそれを知っている。
「蛍が武藤たちをボコボコにしたらしいぞ。あんな奴ら相手にするなんて、蛍らしくないよな。」
この男は「向井」と「蛍君」のどちらのことを言っているのだろうか。蛍君のような真面目な人が武藤みたいな不良を相手にしないという意味だろうか。向井のような強い人が武藤みたいな弱い人では相手にならないという意味だろうか。ふと、男の色がわずかに暗くなるのが分かった。
「あれ、反応薄いな?もしかして知っているのか?」
ああ、そうか。そういうことも知っている関係なのか。そうつぶやきながら男は顔を机から上げる。前髪は眉の上ぐらいまでしかないのに、後ろ髪は首の付け根ぐらいまであった。
「君、名前は?」
無視かよ、と男はつぶやき、髪をかき乱す。
「そんな大事なこと、蛍から聞いてないのかよ。杉山だ。ほら、イケメンで頭がよくて、何でも出来る 友達がいるって話、聞いたことあるだろ。それ、俺だから。」
そんな話、聞いたことない。しかも、色を見る限り冗談でもないらしい。頭がよくてイケメンで、何でも出来る。その自信は一体どこから来るのだろうか。
「楓。」
私がそう言うと、杉山は何のことか分からず一瞬戸惑った。そのときの色が向井のときとそっくりでおかしかった。宮野楓。私の名前だ。
「まあ、ここで蛍を待っているのも常套手段かもしれないけどよ。迎えに行くのも一つの手だよな。」
そう言うと杉山は身体を起こし、椅子によりかかって背伸びした後、勢いをつけて立ち上がった。
「手を貸してやってもいいぞ。蛍の唯一無二の親友の俺が。」
杉山は手を差し出す。明らかに楽しんでいる。向井を心配する様子は微塵も感じられない。自らの興味の赴くままに行動する。自分を中心にして世界が回る。それがこの杉山という人物の性格らしい。
わざわざそこまでする必要もないとは思ったが、断る方が面倒なことになりそうだった。相手が差し出した手を握るなどということはせず、私は教室の出口に向かう。後ろから杉山の声が聞こえる。
「じゃあ、行くか。」




