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ホタルイカ  作者: 大藪鴻大
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向井7

「なんだあ、その目は。」

 勝ち誇っていたその顔には、代わりに憤怒が浮かぶ。俺は口の中に溜まった唾を吐く。アスファルトの地面に赤黒い染みがつく。口の中は鉄の味が満ちていて、とてもじゃないが、唾を飲み込む気がしない。俺は周囲をざっと眺める。全部で五人か。

「大人しく横になってりゃよかったのによ。おまえ、頭悪いだろ。そんなに全裸は嫌か?」

 その発言内容に対してなのか、それともただ単に声に反応しただけなのか、武藤の取り巻きは微かに笑う。しかし、その笑いはどこかぎこちない。俺がそいつらを指さすと、顔が引きつったまま静止した。

「残念なことに、頭の悪い俺はおまえらの名前さえ知らない。」

 名前の分からない少年たちは、先程の顔のまま笑った。しかし、そこには余裕はない。あまりにも不自然な笑顔で不気味と言わざるを得ない。ロボットにプログラミングして笑わせた顔のほうが自然なんじゃないか。

 武藤が首を横に振る。いけ、と命令したのか、武藤の取り巻きのうちの一人が軽くうなずくとこちらに向かって静かに歩いてきた。近づくにつれ、徐々に速度を上げてくる。俺は右足を引く。右手を振るのが見える。

 そんなに遅くて何が殴れる?後ろに身を引こうとも思ったがあまりにも遅いので、右ストレートをおみまいすることにした。腰をわずかに回転させ、相手の右頬に拳をぶつける。相手の顔が歪む。首の根元を軸に顔が左に流れ、続いて体がそれについていった。アスファルトに叩きつけられる。どうだ、アスファルトは冷たいだろ?

 何が起こったのか把握できていないのか、そこにいる誰もが茫然としている。俺の悪い癖だが、俺は茫然とされていても全力でやる。名前を名乗り終わるのを待つような礼儀が必要だと感じるマンガやアニメのような場面に遭遇したことは、残念ながら、ない。

 俺は、素早く集団に駆け寄ると目の前の奴の鳩尾にパンチを食らわせる。そいつは、振り上げることもなく手に持っていた鉄パイプを手からこぼす。声も出さずに腹を抱え、その場に倒れこむ。

 俺はすかさず横からのパンチを受け止め、右足で蹴りとばす。そいつは軽く吹っ飛んだ。右足を地面につけると、今度は右手で左に奴に向け、振る。そいつは俺の右手をとらえたが、渾身の左ストレートが顎下に入り、その場に倒れ込む。

 あと一人か。俺は後ろを向く。その場から離れようとする武藤に大股で接近し、首を捕まえる。俺は右手に力を込める。酸素を求めあえぐその顔は、まさしく酸素不足で苦しむ熱帯魚のようでもあったし、餌を求めて口を動かす鯉のようでもあった。

「情けない顔しているな。」

 武藤の表情は変わらない。目がみるみるうちに赤くなる。

「おまえら本当に『烏』か?」

 俺はどうしても確認しておきたかった。こんなくだらない奴らが本当に『烏』なのか。こんな奴らと人をあれほどまで魅了するものが同じ立場に立っていいのかを。

 武藤は小刻みに首を横振る。振るというより、横方向に首を震わせていた。俺はとりあえず手を放すことにする。武藤はその場に尻もちをつく。餌を持ち合わせていなかったので、もしこの顔のままだったらどうしようかと思ったが、その心配はなかった。武藤の顔が恐怖で歪む。

「てめぇ、なんで―」

「別に隠していたわけではない。」

 弱い犬は何度も吠えるが、強い犬は一吠えで相手を追い払う。それだけだ。

 武藤の目が見開く。目の端が湿っているように見えるのは、予想外の結末に感動しているからか?いや、違うだろうな。怖いだけだろうな。

 下らない。日常から逃避する奴らなんてそんなものだ。

「おまえは、その程度なんだよ。」

 俺は右足を軽く後ろにやり、武藤の腹めがけて振る。呻き声とも言えないような短い声を漏らす。武藤の髪をつかみ、引き起こす。もはや武藤は抵抗する力もないらしい。

「もう終わりか?俺をいじめるのは楽しかったか?」

 武藤の顔が小刻みに震えている。心臓の鼓動が速くなる。絶望に浸る人の顔を見るのは何年振りだろうか。いじめる側がいじめられる側に急転するときに見せる、ごまかしてきた自らの無力さを再認識するこの顔を見るのは小学校以来だ。頬が笑いで引きつる。右手をゆっくり引く。武藤の口が動くが言葉は出てこない。涙が流れる。



 全身の力が抜けるのを感じた。地面にずり落ちた武藤は何度も倒れながらも体を持ち上げ、何度も転びそうになりながら走っていった。取り巻きもそれに続いていった。僕は頬を袖でこする。喉が痙攣する。空気が断続的に口から洩れる。僕は泣いていた。

 小学生のときも似たようなことがあった。僕をいじめていた奴らが、体操服を水たまりに投げ込み、踏みつけたときに僕の中の何かが変わった。真っ白だった体操服が泥で汚れたとき、僕の中で何かが芽生えた。

 気がつくと、『俺』はそいつらを痣だらけにしたあと、泥水に顔をつけ、それを飲ませていた。

「おまえら、人の母親の想いまで踏みにじるほど偉いのか?」

「ほら、飲めよ。その位のことはしたんじゃないか?」

 そのときの『俺』は確かに笑っていた。何とも言えぬ快楽と解放感に酔いしれていた。人を虐げることで自分の地位を保とうとする弱者を征伐するときの、あの残虐さの中にある清々しさは『俺』を満足させるのに十分だった。

 そして、再び降り出した雨の中、『僕』は雨と涙の両方で頬を濡らした。


 僕の日常の中の非日常。

 向き合う前に、『僕』は目を背け、抱えきれなくなったら『俺』がすべて破壊する。いつも逃げだす。大義名分を得た途端、『俺』は行動に移す。そうして『僕』の日常は保たれる。『俺』は非日常を生き延びる。

 

 風が吹く。桜の香りが鼻につく。

「どうしてそうなるのよ、向井蛍。」

 後ろから、よく通る声が聞こえる。僕は振り返る。楓が体育館から漏れる明かりに照らされ、顔色一つ変えずに立っていた。僕は泣き出した。


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