向井6
俺は体を伸ばす。伸ばすと同時に深呼吸をする。なぜだか、窒素や酸素と言った空気の化合物だけでなく、薄汚れた物質まで肺の中に入ってきたような気がした。俺は思わず咳払いをする。
下校時刻、ホームルームが終わってしばらくたつというのに多くの学生が群がる。あの屋上に引き返そうか。あの何も含まれない純粋な空気が無性に恋しい。俺は体育館裏に向かう。
「悪いね、こんなところに来てもらって。」
その澄んだ声とは対照的な少し崩れた口調。俺は楓に呼び出されたのだ。おそらく、告白ということはないだろう。
「あの屋上だと邪魔が入るし。」
楓は困った表情をした。それに対し、俺は苦笑いで応える。確かに、邪魔だ。
「で、何のようだ?」
楓がいたずらじみた顔をする。一歩前に進む。俺は一歩後退する。
「私も数学教えてもらおうかなあって。」
「残念ながら、俺はもう数学が嫌いになったんだ。現時点ではカラスより嫌いだ。」
楓は冗談に決まってんじゃん、とつぶやきながら体育館の外にある石段に腰掛ける。冗談に決まっている。心の片隅がチクリとする。桜の香りがするので俺はなんとなく首を振り、すでに緑の葉をつけているはずの桜の木を探してしまう。
「カラスより嫌いなんだ?」
「二回目だ。何の用だ?」
俺は楓の隣に腰掛ける。風が桜の香りを運ぶ。その風で桜の香りが楓から漂っていることが分かった。これで二回目だ。
「別に。用はない。」
「そうか。」
いつもなら帰ってしまうはずだった。用がないなら他の活動にエネルギーと時間を使ったほうがいい。しかし、俺は帰らなかった。桜の香りのせいかもしれない。
「今日は落ち着いているね。」
そう言った楓はこちらを見ると笑顔を見せた。何の偽りもない笑顔だ。胸が自然と温かくなるのを感じる。春の日差しのせいかもしれない。
「君がどうしようと私には関係ないけどさ、自分のことは自分で何とかしよう。」
楓が軽くうなずきながら俺に横顔を見せて言う。眉間にしわが寄ったのを感じたのは、訝しさと疎ましさが俺の心の中に現れたからだろう。
「やっぱりまだ片付いてなかったのかあ。」
心臓が大きく脈を打つ。それをきっかけにして俺の鼓動はわずかに早くなる。思考が鈍くなる。俺は楓を見る。楓も俺から目を放そうとしない。
「おまえには関係ない。」
「だから関係ないって言ってんじゃん。」
右手に力が入る。落ち着け、力を抜けと何度頭の中で念じてもその信号は右腕まで届かない。
突然、その声は、俺の左側から飛んできた。よわよわしい懇願の声とそれを一掃する嘲笑が奇妙にまじりあい、独特の音波をなしていた。何となくそちらのほうを向く。
「まあ、こんなもんだよな。」
こいつ、最近生意気だったっすからね、となんだか多少乱れた日本語が聞こえた。
「勘違いしないでほしいんだけど、俺らは金が欲しいわけじゃないから。」
「まあ、今のお前にはまだ分かんないだろうな。あっ、最後まで分かんないかもな。」
「特別に教えてやるよ。俺らは『烏』なんだよ。」
取り巻きが笑い出す。そーそー俺らカラスなんだよ。
カラス?ああ、もしかして例の『烏』か。カーカ―、と誰かがとてもカラスに似ても似つかない声を発した。
「何?何か気になることでもあったの?」
楓の声に遠くに集中していた意識が引き戻される。カラスでも飛んできたの、と冗談のようなそうでもないようなことを言った。
「おまえ先に帰ってろ。」
俺は声がする方向とは逆の方向を指さした。
「楓。」
楓は何のつもりだったのか、自分の名前をつぶやくと、俺の言うことをすんなり聞き入れ、石段を飛び降り、俺が指さしたほうへ進んでいく。
桜の香りが遠のく。




