蛍6
この世に神様はいない。少なくとも、今日は僕のことを見てはいない。
カイトウさんはいた。職員室で学生名簿を開き、この学校にカイトウさんがいないことにホッと安堵のため息をついたとき、カイトウさんは目の前に現れた。僕らの持つ辞書のような数学の問題集のほかに専門の雑誌のようなものをわきに抱えて職員室に入ってきた。学校にいるのは生徒だけではない。教師もいる。
僕らの数学の教師兼担任の名は海東慎也。カイトウさんだ。
海東先生は、大きな欠伸をすると勢いよく自分の座席の椅子に座りこんだ。180㎝はあるのではないかと思われる大きな体に椅子がきしむ。しばらく、何かを考え込んでいる様子だったがパソコンを開き、起動する。暗い画面に明かりが灯る。
どうする?尋ねるのか?「あなたはカイトウさんですか?」と。いや、ちょっと待て。あの先生が窃盗犯なわけないだろう。だって、教師だぞ。いや、でも、しかし―。
「あの―」
気付くと僕は先生に声をかけていた。海東先生は今まさにキーボードを叩こうとか目得た手をひっこめ、こちらを見た。海東先生は、スポーツを嗜んでいるようには見えないが、40歳とは思えない締まった体つきをしていた。誰とも目を合わせず、ぼそぼそひとり言のようなナレーションで進行する授業スタイルが不釣り合いだ。どちらも口を開かず、沈黙が続く。
「なにかな?」
はっきりした口調だった。ますます、あの授業スタイルに疑問が生じる。もしかして、僕らは数学の時間中、同じ夢を見ているのだろうか。数学の教師がだらだらと解説をする、あの日常の夢を。
「いや、あの、海東先生ですよね?」
そうだけど、とつぶやく。確かに「海東」だが、これは「カイトウ」であることを認めたことになるのだろうか。視線はこちらを見たまま放さない。眉一つ動かさないその視線のためか、悪いことはしていないのに罪悪感が募る。
「何か質問?」
額にじんわりと汗がにじむ。どうして僕は声をかけてしまったのだろうか。いつもの通り逃げだしてもよかったはずなのに。僕は先生にそれと分からないように深呼吸する。あなたはカイトウさんですか?頭の中で何回か反芻する。
「なんでサインは積分するとコサインになるんですか?」
先生は呆気にとられたのか、しばらく何の反応もなかった。職員室の電話の声が響く。誰かが受話器を取るのと同時に先生の顔が明るくなる。
「それ、質問だよね?」
知らないですよ。もうどうにでもなれ。




