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ホタルイカ  作者: 大藪鴻大
10/65

向井5

「ねえ、『烏』って知ってる?」

 放課後、家に帰ろうとカバンを手に取り、あまりの軽さを感じたとき、突然後ろから声をかけられた。後ろを振り返ると、背の低い少女が立っていたが、数学の問題集を手に持っていなかったため、それが美夜であると認識するのにわずかなタイムラグがあった。

「カラスを知らない高校生なんているのか?」

 そう答えた後に、今日は数学を教えなくていいのだということに気付き、安堵する。美夜の顔は今までのあの怒りと不満が入り混じった顔からは想像できない明るい笑顔で満たされた。

「私はその『烏』が窃盗事件の犯人だと思うんだよね。」

「ゴミ捨て場でもあらされていたのか?」

 その一言で、美夜の顔の明るさが一気に収縮し、代わりに疑惑や不快さが満ちた。「ゴミ捨て場」という表現は不謹慎だったか、と思ったが問題がある表現とも思えない。

「いるじゃん。烏を知らない高校生。」

 美夜が人差し指をこちらに向けて言う。知っている。全身が黒く、夕暮れになるとカーカ―と鳴いて空を飛んでいるイメージが強いが、実際は昼間でもゴミをあさっているあの鳥だろ。しかし、そう説明しても仕方がないだろうということは流石に悟った。

「なんだ。カラスって。」

 美夜は俺から視線をそらし、髪をかき乱し、説明したくないと言わんばかりの態度だったが俺は美夜から視線を外さなかった。説明してもらうのが数学の専任教師に対するマナーだと思ったからだ。まあ、美夜曰く、「正確にはまだ」教えていないが。

「ニュース見ないの?」

「そんな変なニュース、聞いたことがない。」

 だよね、と美夜はつぶやく。周りの何人かの男女がこちらを何度も見ては何やら話し、時折笑い声を発している。予想はつく。あの二人デキたのか、とかそんなことだろう。この女の本性を知ったらそんなことは言えないだろうな、とくだらないながらに心の中で反論する。

「場所、変えようか。」

 美夜はそんな空気を感じ取ったのか、俺に背を向け、話声となぜか消しゴムが飛び交う教室を出て行く。

 俺は後を追いかける前に、後ろを振り返る。頭がぼさぼさの青ぶち眼鏡をかけた男が顔をとっさに下に向けるのが見えた。しばらくそいつを眺めていた、いや周りから見ると睨んでいたように見えたかもしれない。そのためか、そいつは下を向いたままピクリとも動かなかった。  

 俺は後ろから飛んできた消しゴムを首を傾けかわすと、そのまま教室を出る。「おい。待てよ、蛍。」というひときわ大きな声を聞き流し、扉を開ける。それに合わせて上から物体が落ちてきた。俺の膝頭のあたりでバウンドし、地面に落ちる。黒い制服のズボンに白とわずかに黄色の混ざった色が付着し、同じ色の煙が立ち上っていたが、気にせず外に出て扉を閉める。


「烏っていうのは、世界中を飛びまわって人を消していく、今話題の人物のことだよ。」

 俺は屋上から下校する学生たちを見送りながら、美夜の話を聞く。美夜に捕まらなかったら、今頃俺はあの辺りにいただろうか、と適当に見当をつける。

「インターネットの書き込みに書いてあったのか?」

 だとしたら、全く信憑性に欠ける。そんなもの、日常に退屈した奴が退屈しのぎにでっち上げた架空の人物と考えるのが普通だ。

「『烏』とやらはネットを介して世界を飛び回っているんだな。」

 俺としては気のきいた冗談を言ったつもりだった。しかし、美夜は眉間にしわを寄せて下を流れる人の流れを眺めている。その横顔は何となく楓を思わせる。

「『烏』が現れたところには必ず黒い羽が落ちている。」

 下を流れる人の波はとても愉快そうにじゃれ合い、寄ったり離れたりを繰り返しているが、その声はここまで届かない。ここには静寂が漂う。だから、突然の美夜の言葉に体全体が反応してしまった。

「だからそれも、架空の設定だろ。」

「君、本当にニュース見てないんだね。眺めているの?」

「そんなニュースは―」

「世界中には、行方不明者が何人いる?」

 美夜の言葉に力が入る。美夜の顔にはいつもの軽い感じの代わりに真剣さがにじみ出ていた。その顔で質問していたらこっちも教えやすかったんだがな、とどうでもいいことを考えてしまった。

「『烏』が神隠しをしているとでもいうのか?」

 美夜は黙ってうなずく。おそらく、行方不明者が消えたと思われる現場には共通して黒い羽が落ちていた。それをどのように確かめたのか、(まあ、ネットかもしれないが・・・)その黒い羽が『烏』という存在を生み出したということだろう。

 しかし、俺には『烏』とやらが本当に存在して、わざわざ黒い羽を置き、解決不可能のトリックで神隠しを世界中で実行するとは考え難い。

「用事はそれだけか?」

 美夜はしばらく遠くを見ていた。その横顔は何かをあきらめたかのようだったし、何か懐かしいものに思いをはせるようでもあった。西の空がわずかではあるが赤く染まってきた。白い半月が空に浮かぶ。

「それは置いといて。」

 急にしゃべりだしたかと思うと、カバンに手を突っ込みなにかを探し始めた。その口調はいつもの、あの軽い感じに戻っていた。美夜が手を止める。カバンから何やら分厚い本の端が見える。全てを見るまでもない。俺はすかさず出口に向かい歩き始める。

「ちょっ、どこいくのよ。」

 その声が聞こえたときには、俺はすでにドアノブに手を伸ばし、つかんでいた。俺はゆっくりとドアを開け、中に入る。ドアを閉めるとき、突然の出来事に反応できず立ち尽くす美夜の姿が見えた。

 俺は数学が嫌いになってしまったかもしれない。少なくとも、カラスと数学とではカラスのほうが断然いい。


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