DOLL
万物は流転し、元に戻ることは無い。
遠い異国の人形師が、彼自身が大事にしている可愛らしいマリオネットを取り出し、言った。
「さあさあ、皆さん見てお行きなさい。人形劇の、始まりだよ。」
人々が足を止め、人形劇が始まった。幼い子供達は、それを熱心に見ている。もちろん、その親も一緒だ。
だが、マリオネットの様子が変だ。座っている人形が、突然立って踊りだす。その体に糸が絡まろうとも、踊りをやめる気配は無い。慌ててしまったのは人形師。
「これは失礼、少々お待ちを。」
と言ってみたものの、マリオネットは踊りをやめない。くるくると華麗に踊るマリオネットに、人々は怒るどころか拍手を送った。
それを見て不機嫌になった人形師は、マリオネットを持ち帰ると、糸を切り、装飾がなされた古い箱へマリオネットを放り込むと、彼の小屋に火を放った。
非日常の、始まり。
チェス盤の模様をした床。神殿のような壁、柱。空は夕焼けに染まっていて、綺麗だ。少し暑いけど、仕方ない。あの男から自由になれて、本当に幸せ。逆らう事は、間違ってなかった。踊っていると、もっと暑くて疲れてしまいそう……。
突然、私はずぶ濡れになって、空は曇っていた。一気に外は寒くなり、外には雪が積もっていた。今は、冬だから当たり前だけど。あの男が横たわっていたけど、助ける必要も無いと思った。外へと歩き出す。雪のやわらかい感触が冷たく、しかし心地よい。
小屋の焼け跡に、出来上がったばかりの、糸さえ付いていないマリオネットがあった。まだあどけない顔立ちと、大人びた表情を併せ持った少年のマリオネット。彼は近くにメモを見つけた。
『クリフ…セリアと組ませる。』
クリフ。それが、彼の名だった。彼は、相棒であるはずのセリアを探すために歩き出した。
見たことも無い物への既視感…、人はそれをデジャビュと呼ぶ。
木陰で休んでいると、人形が私に近付いて来た。見たことも無いマリオネット。だけど、何故か懐かしい。
「セリアさんを、知りませんか?」
…忌々しい。あの男に呼ばれていた名前で、私を呼ばないで欲しい。
「前はそうだったけど、今は違う。私は、アイリス。」
適当に考えた名前だが、人形は納得したようだった。
「じゃあ、仲間ですね。僕も、マリオネットなので。」
…マリオネット?こいつが?糸の切れ端などひとつも付いていない。
「糸が、無いじゃない。」
「…糸、ですか。そういえば無いですね。」
「それじゃ、ただの人形。」
「糸を取り付ける部分は出来てるのに?」
「…もういい。面倒くさい。」
「そうですか。」
「名前は?」
「誰の?」
「私は名乗ったでしょう?」
「ああ、僕はクリフって言うみたいです。」
「『みたい』って?」
「メモに書いてあったんです。あなたの事も。」
「…そう。」
とにかく、忌々しい、廃墟同然のこの家から出たかった。
これから何が起こり、何が終わるのか、それは誰にも分からない。
…曇り空が見える。僕等はこれから、何処へ行こうとしているのだろう。アイリスは、街中を慣れたように歩くのに対し、僕は全ての景色が珍しく、見ていると一日中過ごせそうだった。
「ほら、ついて来なよ。」
僕はアイリスの好奇心に巻き込まれたらしく、連れて行かれるまま門をくぐると周りの景色が変わっていた。青一色。いや、一色というのは正確ではない。様々な青が周囲の景色を形作っていた。川も、海も、町も、草原も、人も、ペット達も、青。ふと見ると、アイリスさえも青に彩られていた。僕も青い。赤、と書かれた色鉛筆で文字を書こうとすると、人々に不思議そうな目で見られた。だがアイリスはそんな事は気にせず歩いていく。色とりどりの外の世界に比べ、ここは恐ろしい場所のような気がした。
「あれ?ここ、青い?」
アイリス、今更か。どこか、抜けてるんじゃないのか?
「さっき、あの門をくぐった時からです。」
「え、本当?」
「…気付かなかったんですね。」
「だって、あそこ…。」
アイリスが指差した先は、色々な色が混ざり合った螺旋階段だった。下に降りて行くようだ。気付くと、アイリスがいない。辺りを見回すが、見える範囲にはいない。
「遅い!」
…アイリスが速いんだ。そう思おう。
日常。そして、その裏には非日常。
螺旋階段を下りていく。クリフが、いつの間にか私を追い越す。急な階段で、クリフが転ぶ。無視。それにしても、この階段は長い。何処まで続くのか、なんて考えていたら、あっという間に下の階(?)についていた。
そこは何だか怖い所だった。誰かにじろじろと見られている気がする。でも、何処を見てもクリフしかいない。クリフも辺りを見回しているけど、それ以外は何もいない。
『ねー、チョー可愛い待ち受け見つけたんだけどー。』
『え、何それチョー可愛いしー。何その人形みたいなキャラクター。』
『よくわかんないけどー、ケータイに元々入ってたー。』
『え、まじでー。いいなー。』
…誰の声だろう。どこかから声がする。『ケータイ』って何?『待ち受け』って?それが、私?いや、私はアイリスだ。人形、だと思う。確かにそれは否定できない。でも『キャラクター』じゃないと誰が断言できるだろう。
「走ってみよっか。」
「それは、出来ないみたいですよ。」
あたりを見回す。狭すぎる。確かに無理そうだ。
「きゃあ!」
アタシの傍をチャリが通り過ぎる。近くの川にケータイが落ちる。拾ったら、もう、何も映らなかった。最悪。
「元気だしなよぉ。いっそ機種変したら?」
「そうだね。」
変わらず、変わる。それが世界。
なんだか、ふわふわしていた。アイリスが、近くを漂う。大丈夫か、と聞こうとしても声が出ない。
気付くと僕は、暖かい何かに包まれていた。アイリスが居ない。
「ねえ、起きてよ。クリフ…?」
「もう、起きてます。」
目の前のアイリスが、変だ。糸が無くなっているし、動きがしなやかで、何よりもその顔は表情を変えて…。
「に、人間…?」
「何言ってるの?アイリスだよ。アイリス!わかるでしょ?」
「アイリスは、僕と同じマリオネットじゃないか。君は違う!」
彼女は、涙で描かれていない、あるがままの瞳を潤ませた。
「私が、マリオネットじゃない?冗談じゃないわよ!あんたこそ人間の格好しちゃって、何様のつもりよ?」
僕が、人間?この僕が?人間なのか?
「裏切り者!最低!」
アイリスはそう言うと、部屋のドアから出て行った。僕も、別のドアから部屋を出た。すると、出たはずの部屋。しかし、そこには鏡。僕は、人形ではなくなっていた。明らかに、人間。アイリスの言う通り、僕は裏切り者だ。アイリスを孤独にしてしまったのだから。何故、人間になった?何か、思い当たる節は…?
悩み、立ち止まると霧は濃くなっていく。
私は、本当の馬鹿だ。溢れる涙が、その証明だった。わたしが、クリフと同じく人間になった、その証。私の馬鹿。クリフの馬鹿。一人が、とても怖い。クリフがいない事が、突然不安になる。
「クリフ…、どこ?」
かすれた声はクリフに届くはずも無く、ただ室内に反響した。あの男と離れてから、ずっと傍にいた。今まで出会ったどの観客たちより、通りすがりの人たちより、あの男より、暖かくて、優しくて、そして、私を孤独から遠ざけてくれていた。ずっと、わがままでどうしようもない私の傍にいてくれた。なのに、私は彼から離れようとして、彼を傷付けて…。
ただ、涙が溢れた。クリフの存在は、今の私にとって何より大切だったのに、失うことを望んでいたなんて、悔しい。会いたい。とにかく会いたい。もう、お互いの宿命は受け入れるしかない。もう、彼に会うことはできないと思う。でも、今会えるのなら、彼に縋りたい。とにかく、怖い。寂しい。辛い。クリフ…、何処にいるの?
部屋の床は今や一人の少女となったアイリスの涙で濡れていく。その涙はやがて乾き、アイリスは歩き出す。
靴音が、交差する。
思いというものは、交わらない方が自然である。
アイリスと別れて、どれだけの時間が経っただろう。僕は、アイリスを探していた。でも、いない。無限に部屋が広がるような空間だ。もう会えなかったとしても不思議ではない。だが、『アイリス』という存在が、僕自身を大きく変えたのは確かだ。出来るなら、僕だけでもここから脱出して、人間としての生活を送りたい。まだまだ知らない事は多いから、学ばなければいけない気がする。もちろん、僕自身のために。
「クリフ…何処?」
アイリスの声が、聞こえた?足音もだ。もしかしたら、幻聴かも知れない。もう少し、待ってみよう。本当にアイリスなら、もう一回くらいは言ってみる事だろう。
「クリフ…近くにいる?」
「アイリス?いるのか?」
その時、目の前のドアが開いた。
「見つけた!クリフ、私…。」
泣き出すアイリス。僕は、突然抱きつかれて戸惑う。僕に、どうしろというんだ?
「アイリス、甘えている暇は無いと思う。」
僕は極めて事務的に告げた。とにかく、ここから出るのが先だ。
「クリフの馬鹿…。」
アイリスは潤んだ目を擦って、歩き出した。
光は果たして本当の、希望の光だろうか?
少年と少女は、ドアの続く廊下に出た。開ける。閉める。歩く。開ける。閉める。歩く。気の遠くなるほど、久遠とも呼べるほど歩く彼ら。神は彼らに救いを与えはしないのだろうか?彼らに救済は用意されていないのだろうか?何処までも薄暗く、靄のかかったようなこの廊下に、光などあるのだろうか?神は全ての物に平等に愛を注ぐ存在ではないのか?
「ねえ……私………………」
「…………疲れた、だろう……………………」
彼らの意識は遠退いてゆく。その靄と同化し、いずれ消える。それが宿命だと言わんばかりに。神がもし彼等を見捨てたのならば、ここで彼らは人形に戻る宿命。ただの器、上辺だけの存在に堕ちる宿命。元在りし姿が、手に入るだけ。ああ、神は彼らの願いを聞き止めもしないのだろうか?
こつん、こつん こつん、こつん こつん、こつん こつん、こつん こつん、こつん こつん、こつん こつん、こつん こつん…………。
ああ、もう、彼らの足音も消えた。もう、神は、彼等を救いはしないのだろうか?
静寂。
零れた光が、溢れる。
神の愛は、本当に光となれるだろうか?
見も知らぬ街角。
一人の少女が、小さなこの町の小さなバス停に佇む。今日も変わらずバスは来る。
そのバスに、一人の少年。少女と同い年くらいだろうか?彼は少女に微笑む。
窓の外には、かつて高名な人形師が暮らしていたという屋敷の焼け跡。
ブレーキ。二人。少年は少女の手を引く。
「やっと会えたね、アイリス」
…………語り部は、眠るとしよう。