あなたに響く音
某チェリストさんの演奏会フライヤーがとても素敵で、そこから想像したらこんなお話が出来上がりました。
妻が家を出て行った。
その時に僕のチェロの音も持って行ってしまったらしい。どんなに弦を弾いてもまったく音がしなくなってしまって途方に暮れた。
途方に暮れたといえば妻が出て行ったことだってそうだ。風の気持ちいい午後だった。晩ご飯は何がいい、という話をしていて、僕はチェロを弾きながら考えていた。最近あまり食欲もないから、つるつると食べられるうどんのようなものや蕎麦のようなもの、いやこういう時ほど体力が落ちやすいので玉ねぎと生姜たくさん入れて甘い味付けにした生姜焼き、さすがにトンカツやチキンカツは後で胃が重たくなるかもしれないし、トンカツと思ったところで豚汁が浮かんで、こんにゃくや豆腐、きのこも油揚げもごぼうもニンジンもどっさり入れたそれもいいなあ、と思ったところで、「特に食べたいものはないってこと?」と妻に聞かれた。
「悩んでるところ」
「悩んでいるのにチェロを弾く手は止めないのね」
「これは僕だから」
「あらやだ、妬ける」
音は小さくしていても、楽器を弾きながらだと会話の声は大きくなる。それでも妻はどんなに大きな声を出しても涼しい顔のままでいる人で、僕は彼女のこういうところを好きになったのだと改めて思う。
「なんでもいいの」
「なんでもは良くないけど、悩んでる」
「買い物に行かなきゃいけないんだから、そんなに悠長に悩んでいないでよ」
うん、の返事の代わりに弦を引いた。ぼうん、とものすごくよく磨き上げた川原の丸い小石みたいな音が出て、チェロの言葉なんか分からないわよ、と妻は笑った。
笑っていた。それなのに。
お気に入りのチャトラがたくさん描かれたエコバッグをいつものように持って彼女は買い物に出て行き、それきり帰らなかった。携帯電話と財布は持って行ったと思う、だけど電話は繋がらなかったし財布にはいくら入っているのか僕は知らないままだった。
妻が帰らなくなったことに気付いたのはすぐで、日が暮れる前に僕のチェロは音を出さなくなっていた。驚いて最初は自分の耳がおかしいのかと、プールで耳に水が入った人みたいに頭を傾けて片足で飛び跳ねてみたり、テレビをつけて音量を大きくしてみたりしたけれど、耳からは何も出てこなかったしテレビはちゃんとうるさくなった。
なにがおかしいのか分からなくて、とりあえず楽器屋に電話をしようと思ったけれど、金管楽器に何か詰まっただとか木管楽器に穴が空いただとかではないので、相談しても直せるものなのか分からない。窓の外は薄暗くなってきていて、買い物に出た妻がいつもより遅いと、はっとした。スーパーは割り合い家の近くだし、自転車で行くので彼女はさっと行ってさっと帰ってくる。献立に悩んでいるにしても遅い、事故にでもと思って慌てて家を出たら自転車はそこにあった。でも妻の姿はない。靴もない。やわらかな素材でできた薄茶色の履きやすい、いつも自慢げに僕に言うスニーカーが。
今日に限って徒歩で?
そうでないとは限らない。僕はスーパーまで走って、中をぐるっと一周して、次に妻の好きそうなコーナーをひとつずつ丁寧に見たけれど彼女の姿は見当たらなかった。とりあえずもう一周ぐるっとしてみたけれど、やっぱり見当たらなかった。カートもカゴも持たずに売り場をぐるぐるする僕を見て、不思議そうにする人や眉を寄せる人はいたけれど、妻だけがいなかった。
妻とチェロの音が出て行ってしまった次の日、僕は出ないと分かっている楽器をそれでも弾いた。僕は職業的チェロ奏者なのだ。チェロを弾いてお金を稼いでいるので、このまま音が出なかったらどうしよう、という不安も大きいけれど、とりあえず頭の中で音は鳴らせる。指使いだけでも滑らかにしておこうと、ならないチェロの前に譜面立てと楽譜、そして音のしない弦を揺らす。習うより慣れろ、頭でなく身体で覚えろ、そっちの練習方法だ。
妻が帰ってこないのも心配なので駅前の交番に出かけてみたけれど、財布と携帯電話を持っていて電源は切られている、と伝えると、一応メモは取ってくれたけれど「夫婦喧嘩で家出ということは?」と聞かれた。彼女の実家にも電話をかけたけれど、義母は明るい声で『あら元気? お中元とか毎年気にしなくていいんだからね、本当に』と言われただけで、娘がいなくなっていることを知っている様子は微塵もなかった。家出して実家に帰っているわけでもなさそうで、ついでに僕の実家にも電話をしてみたけれど、『お中元毎年気にかけてくれてありがとうねえ、でもそんなに気を遣わなくていいんだからね』と同じようなことを言われただけだった。どうも妻が両家にお中元に欲しいものはないかと電話をしていたらしい。
交番で最近事故や事件は何もないと教えてもらい、巡回の時などに一応気を付けては見るよう勤務の引継ぎをしておきますと言われて、それ以上は何も望めなかった。
駅からの帰りに妻の好きなケーキ屋さんでカスタードとホイップクリームをたっぷり混ぜてぎゅうぎゅうに詰め込まれているシュークリームを買って、見かけた野良猫に「うちの妻を知らない?」と聞いた。黒と白のハチワレでちょっぴり目付きの悪いその猫は、きょとんとした顔を見せたけれどすぐに走り去ってしまった。黒くて長い尻尾に、「見かけたら家に帰るように伝えといてよ!」と声を掛けたけれど、野良猫にお願いするのは脱走した猫の行方を知りたい時だったかもしれない。
家に帰って妻の気に入っているニンジンとじゃがいもと玉ねぎをうさぎが転がしている絵で縁取られているお皿にシュークリームを乗せて、玄関先に置いた。名前を呼んだら帰ってくるかなあ、と思ったけれど、ちょっと恥ずかしくなってしまって結局呼べなかったから、シュークリームの匂いが届くようにうちわを持って来て仰いだ。粉砂糖が舞って、玄関が甘ったるくなる。
妻がいなくなって三日経って、チェロの音は相変わらず出ないままで、庭に置かれたプランターの花がぐったりしているのを見つけた。妻がいつも丁寧に朝夕水をあげている、それを僕もいつだって見ていたのに花に水をやることをすっかり頭からすっ飛ばしていた。
これはまずいと、妻が使っているホースや如雨露を探したけれどどこに見当たらず、僕は妻がいろいろとやってくれている横で楽器しか弾いていないなあと改めてびっくりする。そういえば妻がいなくなってからまともな食事もしていない、冷蔵庫に残っていたポテトサラダや白菜の漬物、らっきょとか台所にあった食パンを齧るとか、妻が食べかけて封をしていたナッツ入りのチョコレートを口に入れるとかしかしていない。結婚前はこれでも独り暮らしをしていた時期があったのに、なんだかなんにも出来なくなっている。いや、風呂掃除は僕の仕事なのでそれは出来る。でもその風呂に入っていない。
そうだ風呂にはあれがある、と繋げて思い出して、僕は洗面器を持ってきた。水を汲んでこれで花に水をやればいい。しかし意外と水を入れた洗面器は運びにくい。
必要以上にこぼしてしまいながら廊下をびしょびしょにして、これはもう庭に面した居間から直接外に出た方がいいのでは、と思いながら水が半分になってしまった洗面器を抱えて靴のかかとを踏んで、庭に出た時にふと妻の笑い声を聞いた気がした。くす、と。
「……居るの?」
思わず聞く。洗面器を抱えてズボンもちょっと濡らしてしまったまま、僕はぐるっと見渡す。
「ねえ、隠れてる?」
声は止んでしまったけれど、僕はもう一度見まわす。庭の隅に、処分しないとね、と言いつつそのままになっているそこそこ大きな枯れ木があるのだけれど、そこの根元から小さな新芽がいくつか出ていた。
「……芽だ、」
ねえ、芽が出てるけど知ってた? と思わず大きな声が出た。
「知ってる、あなたよりよっぽどわたしの方が庭に出てるもの」
妻の声がして、びっくりしてまばたきを何度もしたけれど、彼女の姿はなかった。でも声はする。チェロは実体があって音が出ないのに。妻は声があって実体がない。
「……もしかして、この木になってる?」
洗面器をひとまず土の上に置いて、僕は枯れ木に触れた。かさかさに乾いていると思ったのにどこかしっとりとしていて、でもそれは僕の手が濡れていたからだったんだろうか。
「隠れてるの」
「なにから」
「あなたからに決まってるでしょう」
「ごめんね、なにか怒らせた?」
「ううん。チェロにばっかり触ってるから、嫉妬してただけ」
「心配したんだよ」
「心配して欲しかったんだから、それはいいことなんじゃない?」
そうか。いいことか。いや、心配させられるのはいい事じゃないと思う。
「なんでチェロに嫉妬するの、だってあれ、僕の仕事の道具だよ? チェロを弾くから君と僕のご飯とか洋服とかガス代とか水道代とかが払えているわけで、」
「そんなことはよく知ってるけど、でも身体と心は別みたいに分かっているからって嫉妬しないとか、納得してるとかしてないとかもそういうのはないんじゃない?」
「なんでチェロに嫉妬するの」
「あなたにいっぱい触られてていいなあ、って」
「……触られたかったの?」
「変な風に言わないでよ、なんだかわたしが欲求不満みたいじゃないの、そうじゃなくて、もっとチェロみたいにわたしのことも考えて欲しいって思ったのよ」
考えてるよ、と即答できなくて僕は先に謝った。ごめんね。確かに僕はチェロのことばかり考えてた。チェロのことばかり触っていたし、仕事だし、夜寝るときに一緒にベッドに入るまではしなかったけれど、妻よりも長くチェロといたことは確かだ。でもそれは仕事だし。チェロが浮気相手とかじゃないし。そうするとむしろ妻と出会う前から僕はチェロを弾いていたから、チェロからすると妻の方が浮気相手だし。そうすると僕は浮気相手を見せびらかしつつ結婚まで舌悪い男になってしまうんだろうか、チェロからしてみれば。いや、チェロは女の人じゃないし。多分、男の人でもないし。
「ごめん、」
「でも悔しいことに、わたしはあなたのチェロの音が大好きなのよね」
「……そう?」
「うん。ずっと聴いてたし」
「あ、チェロ。音が出なくなってて、あの、聞こえないというか、別に故障とかじゃなくて、音自体がなくなってるというか、」
「だってわたしが持ってるもん」
ここの木のところでずっと聴いていたの、と言われた。僕は目の前の枯れた木に、妻の姿を重ねてみる。白くてつやつやしている丸いおでことか、まつ毛の長い黒目の大きな目だとか、歯並びの悪さを気にしている口角の上がりやすい唇だとか。全体的に猫みたいな顔をしているけれど、猫はあんなに笑わないので、本当は犬っぽい顔なのかもしれない。
「わたしもいないのに、音も出ないのに、せっせと練習してたから、あなた。ずっと聴いてたの」
「チェロをほっぽリ出して君を探していた方が良かったのかな」
本当に分からなかったので泣きそうな気持で聞いてみたけど、別に弾くのはいいと思う、と言われて余計に分からなくなった。
「まだ僕の奥さんでいてくれる?」
「うん。あなたのこともあなたの音も好きだし」
「あの、できたらこれからチェロに嫉妬するときは、せめてひと言なんかこう、」
「言うようにするね、うん、察して欲しいばっかりじゃダメだってそこは反省したの」
「だって君はいつもにこにこしてるし、そんな風に思ってたとか全然知らなくて、あの、ごめんね……出てきてくれる?」
「うん。でもどうやっていいか分かんないの、思ったより木と結びついちゃったみたいで。せっかく芽も出てきてるし、あんまり内側から破壊して、とかは嫌じゃない?」
妻はずっと木に要るつもりだろうか、トイレとかどうするんだろう、ご飯は栄養剤と水になっちゃうんだろうか。
「チェロ弾いてよ」
「え、」
「パワーを与える、みたいな感じで」
「なにそれ」
「よく分かんないけど、まああなたのチェロの音が好きだから。わたしが持ってるの、このまま聴こえるから弾いてよ。そしたらなんか、勝手に奇跡とか起きるでしょ」
そういうものなんだろうか、奇跡は確かに勝手に起きるものだろうけど、そんな簡単に扱っていいものなのか。だけど他に出来ることもないし、僕は言われたとおりに台所の椅子を運んできてチェロを持って来て妻の前に座る。
「なんでもいいから弾いてよ」
「なんでもいいって言わないでよ」
ちゃんと、君の好きな曲を弾くから。ああ、僕は思っているよりもちゃんと妻を好きなんだろう。
弦に弓を乗せる。にゃーん、と声がして、塀のところに目付きの悪い白黒ハチワレが飛び乗ったのが見えた。
「ねえ、猫飼わない? あなたがチェロとべったりしている時に、わたしは猫といちゃいちゃすることにするから」
「今度は僕が嫉妬することになるけど」
「いっぱいしてよ、嫉妬! 猫とあなたでわたしを奪い合ってよ!」
最高だわね、と興奮した妻の声がして、見ると枯れ木から人の形が浮き出ているのが見えた。妻だ。
猫を飼ったからって、もしかしたら妻より僕の方が好かれてしまう可能性もあるんだけれど、それは言わないでおいた。新しい火種になってしまったら、もう一匹猫を飼ってもいいかもしれない。チェロをもうひとつ増やすには、僕の腕が二本しかないし。
「いいね、猫」
僕は息を大きく吸った。目を閉じる。
妻の一番好きな曲の、最初の一音がこぼれてちゃんと僕の耳にも届いた。




