9.
「そういえば、颯太君たちはどうして僕たちのアトリエに来たの?」
翔太が紅茶を飲みながら穏やかに尋ねる。
「このアトリエに以前、桜の絵があったと思うんですけど、あの絵を描いた人、多分俺の知ってる人なんです」
「ええ!そうなんだ。覚えてるよ、女の子だよね」
「知ってますか!どんな話してたとか、覚えてること何かありますか!」
颯太は身を乗り出す。
「ええっと…。わざわざ遠くから電車でアトリエに来てくれたって言ってたかな。海がきれいな場所に住んでるとか。何て名前だったっけな…」
「相沢夢っていう子なんですけど」
その名が出た瞬間、翔太の手が止まった。
マグカップが小さくカチリと音を立てる。
「…え?相沢夢?」
「はい…?そうです」
「…え、マジで?あの、僕が生きてるときに見たコンクールの絵、その子が描いたものなんだけど」
「…ええ?」
「えええ?うわ、あの子、相沢夢だったんだ…マジか…」
翔太は思わず笑みをこぼしたが、その表情にはどこか懐かしさと、少しの切なさが混じっていた。
「あれ、颯太君ちなみに、いつからバレーやってるの」
「小学校のクラブ活動からなので、小4からですかね」
「ちょっと待って、僕が見た絵のモデル、颯太君だったりする?」
「いや、それはちょっとわかんないです。あんまり夢の描いてる絵をちゃんと見たことないので…」
「そ、そうか…」
沈黙が一瞬落ちる。
その間に、翔太の胸の奥では、ずっと離れていた過去の線が、音もなく繋がっていく感覚があった。
颯太と夢、そして自分。
それぞれの人生が、絵を通してひとつに結ばれていった。
「俺、夢に会わなきゃいけないんです。あの子に、言わなきゃいけないことがある」
「颯太君だったらきっと大丈夫だよ」
湊が笑いながら、彼の頭をがしがしと撫でる。
「じゃあさ、そろそろ翔太の腕見せてよ」
「え」
「俺も見たいです!翔太さんの描く絵!」
「う、うう、分かったよ…」
翔太は頬を赤らめながら、そわそわと道具を並べ始めた。
絵の具の瓶が、棚の上で小さくからんと音を立てる。
真っ白なキャンバスの前に座ると、彼は深呼吸をひとつして、筆先を静かに絵の具に浸した。
筆が動き始める。
その瞬間、空気が変わった。
さっきまでのおちゃらけた雰囲気は消え、翔太の表情は一気に引き締まる。
バレーのときに見た眼差し以上に、静かで、切実なものが宿っていた。
誰も、声をかけなかった。
筆がキャンバスを擦る、やわらかな音だけが、部屋に響いていた。
「はあ…」
「どうしましたか?」
颯太が湊の方を振り向く。
「俺の知らない翔太が、いるなあって思って」
湊は目を細め、少しだけ笑った。
その笑みの奥には、懐かしさと、ほんの少しの寂しさが見え隠れしていた。
「はい、できた」
翔太は完成した絵をひょいと持ち上げ、湊と颯太に見せてくれる。
キャンバスには、夕陽の下でバレーボールを楽しむ若者たちが描かれていた。
「僕があの日見た夢さんの絵の構図で、さっきのバレーの情景を思い出しながら書いてみた。どう?」
翔太は自慢げににこにことした顔を向けてきた。
「…すっげえ、かっこいい絵だな」
湊の声は、まるで自分の胸の奥を描かれたような感動を含んでいた。
湊の瞳はきらきらと輝いていて、さっきまでの寂しさはもうどこにもなかった。
「颯太君、そろそろ行こうか?」
「そうですね…」
玄関を出ると、茜色の光が通りを染めていた。
「もう行っちゃうの?まあ、颯太君にはやることがあるもんね」
「はい、ありがとうございました」
翔太は笑いながら手を振った。
「どうしようか、行く当てがもうないな」
「翔太さん、夢は電車でここまで来たって言ってたんですよね?」
「そうだよ」
「だったらとりあえず駅に行きますか。海がきれいな場所、ですよね?」
「そうそう、駅名はわかんないけどね」
「分かった、そうしようか。翔太君、手がかり本当に助かるよ」
「いえいえ。ここから駅までちょっと歩くけど、案内しましょうか?まだ颯太君と話したいこといっぱいあるしね~」
「いいんですか!ありがとうございます!」
空はもう茜色に染まりはじめていた。
世界の輪郭が柔らかく滲み、影が長く伸びる。
4人は並んで、街をゆっくり歩いていた。
「すっきりした晴れなのに涼しくていいなあ、この世界は無駄に暑くならないから良いな」
「でも、俺は運動して汗かくの結構好きですよ」
「あれかな、僕、車いす生活になってから気持ちのいい汗かけなかったから、それもあるかなあ」
ゆっくり歩きながら、4人の長い影が地面に重なったり離れたりを繰り返す。
「翔太は、その、足が動かせなくてもできる系のスポーツに興味はなかったのか?」
湊が遠慮がちに聞く。
「うん、無かったね。なんでだっけなあ、あんまり考えたことなかったかも」
「そうか…」
足元に落ちた街灯の光が強くなり、夜の気配がじわじわと街を満たしていく。
やがて、駅の屋根が見えてきた。
レトロな木造の駅舎は、薄いオレンジ色に染まり、どこか懐かしい匂いがした。
「この駅が始発だからどっち乗ってもいいけど、こっちの方が出発早いかな?」
「その、本当にいろいろありがとうございました!」
「俺からも、本当に親切にありがとう」
「ううん、こちらこそ」
「また、どこかで!」
「じゃあね」
電車のドアが静かに閉まり、ゆっくりと動き始める。
ホームに残る翔太が、微笑みながら手を振った。
その瞬間、翔太の心臓がどきんと高鳴った。
「初めまして、山本湊です。さっき自己紹介でバレー部入るって言ってたよね?」
「うん。あ、高田翔太です」
「俺、バレー中学からやってて、俺もバレー部入ろうと思ってたんだ!一緒に体験入部行かね?」
「え!行こう行こう!」
明るくて人懐っこい声が、春の風の中ではじけるように響いた。
ふたりの笑顔は、初対面とは思えないほど自然だった。
「あれ、翔太って最寄りどこ?」
「僕、緑川。次で降りるよ」
「え、マジ?俺上杉町!隣同士だったのかよ!」
「ええ!結構近いんだね」
「じゃあ、明日時間合わせて学校行こうぜ!」
「いいよいいよ!」
「じゃあ、また明日!ばいばい、翔太」
「うん!じゃあね、湊」
電車の中で、湊が満面の笑みを浮かべて手をぶんぶんと振る。
それがあまりにも子どもみたいで、翔太は思わず吹き出してしまった。
湊はそんな翔太の様子を見て、さらに嬉しそうに笑う。
その笑顔が夕日を受けて金色に光っていた。
やがて電車が動き出し、ガタン、と車輪が音を立てる。
電車が小さくなるまで見送りながら、翔太は無意識に手を振り続けていた。
視界から完全に電車が消えると、静かなホームに風が通り抜ける。
「…ふふ」
翔太は思わず笑い声を漏らした。
人ごみの中で、上がりっぱなしの口角を隠すように手を口元に当てる。
胸の奥がくすぐったくて、少し温かくて、どうしようもなく幸せだった。
3年間ずっと、こんな思いをしていられると思っていた。
「じゃあそろそろBBQ始めましょうか!かんぱーい!」
湊はサークルの人たちとBBQに参加していた。
湊の所属している軽音サークルはいくつかの大学のサークルと関係があり、そのうちの1つである芸術系の大学のキャンパスに訪れていた。
「初めまして、一番最初にやったバンドのギターやってた山本湊です」
「ああ、覚えてます!ギターソロめっちゃうまかったですよね!」
「いえいえ!まだ初めて半年くらいしか経ってないですし」
笑いながら、湊は照れくさそうに首をかいた。
「軽音始める前は何してたんですか?」
「実はバレーボールやってたんですよ」
「へえ!そういえばうちの大学にも高校時代バレーやってたっていう人がいるんだよね。確か平井谷高校って言ったかな」
「え、俺そこ出身ですけど…何年生ですか?」
「え!?たしか2年生の、高田君だった気がするな。知ってる?」
「…知ってます」
俺の相棒。
いつも隣にいて、どんなときも笑っていた。
けれどあの日、練習試合の途中、突然コートで倒れて。
それから一度も、自分たちの前に姿を見せなかった。
お見舞いを拒否され続けたまま、転校していったあいつ。
そんな翔太がこの大学に、いる?
そんな大事な人が、すぐ近くにいるかもしれない。
「そいつって、もう今日は大学いないですかね、そこまではわかりませんか」
「いや、確か、美術学科の学生は大体残って自分の教室で作業してるからワンチャンいるかもよ」
「本当ですか…」
「他大学の人でも20時までなら校内入れるよ。感動の再会するなら今のうちだよ!」
「…行ってきます!」
返事を聞くよりも早く、湊はキャンパスの明かりの中へと駆け出した。
芝生の上を踏むたび、心臓が痛いほど鳴った。




