8.
「はあ、はあ、はあ」
「…」
翔太は座り込んだまま、肩を小刻みに震わせていた。
煙を見てから、ずっと体調が優れない。
颯太はそっと隣に座り、背中をさすりながら心配そうに見守るが、体の震えはまだ収まらない。
「ごめんね、遅くなって。…どうした?」
三浦が駆け足でこちらに寄ってきた。
「翔太さんが、ちょっと具合悪いみたいで」
「大丈夫?どうしたの?」
「…はあ。すみません、落ち着いてきました」
肩の震えがゆっくり収まりつつあるが、顔色はまだ青白い。
「翔太君、さっきの見ちゃったんだよね。ゆっくり帰りましょう」
岩崎がそっと翔太の腕を支え、立ち上がらせる。
アトリエに戻り、翔太をベッドに寝かせ、3人はリビングで話し始めた。
「僕が話してしまっていいのか分かりませんが…。彼の死因は、火事による焼死だと聞いたことがあります」
「だから、煙を見て恐怖を感じていたんですね…」
「そうですね。お二人は今日、どうされますか?もう遅い時間ですから、泊まっていきますか」
「良いんですか!ありがとうございます」
ふっと、空気が柔らかくなった。
翌日。
「あ、颯太君たち、おはよう!うち泊まってたんだ」
「翔太君、おはよう。体調大丈夫?」
「ああ、昨日はごめんなさい。もう大丈夫です!そうだ、颯太君!バレーやろうって言ってたじゃん?町のとこに新しく運動場ができたらしくてね、今日どうかなって」
「俺はやりたいです!」
「やったー!三浦さんと岩崎さんは?」
「いやいや、俺はバレー知らないし、経験者2人でやってきなよ」
「僕も同意見です」
「分かった、じゃあ颯太君と行ってくるね」
翔太は嬉しそうにぴょんぴょん跳ねながら、颯太と共に町へ向かっていった。
「毎週日曜日に町でバレーボールやってるんだよ。絵画教室のチラシの隅にバレーの情報も書いて、毎回メンバー変えて遊んでるんだ」
翔太の声には自然とワクワクが混じり、颯太もつられて笑顔になる。
「あれ、チラシ見たはずなのに見落としてました…」
「そういえば、颯太君はどうして僕たちのアトリエに来たの?」
「あれ、翔太さんには聞いてませんでしたっけ。翔太さんのアトリエに以前桜の絵があったと思うんですけど…」
「おい」
「…あ、はい!何ですか?」
翔太が呼びかけに答えると、男性は翔太の方に歩いてきた。
「お前、俺が誰だか覚えてないのか?」
「…え?えっと」
「…まあいいや、チラシに書いてあったバレーってここか?」
「ああ、そうですよ…」
「そう、じゃあやろうぜ。もう人数そろってるから」
男性はにっこりと笑い、新しい運動場の方へ向かう。
颯太と翔太は一瞬顔を見合わせ、互いに小さくうなずく。
少しの緊張感と、これから始まる楽しみへの期待が入り混じった空気が流れた。
翔太の実力は、久しぶりとは思えないほど自然で滑らかだった。
周りをしっかりと見渡し、味方と敵の動きを瞬時に判断する姿は、まさにバレー部のキャプテンそのものだった。
それよりも驚いたのは、翔太に話しかけてきた男性の存在だった。
素人ではないのは一目で分かる。
力強く正確なサーブ、緩急をつけたトス、巧みなフェイント。
翔太と互角に打ち合うその姿は、圧倒的な経験と技術の持ち主だった。
「はあ、はあ、あー楽しかった」
汗を拭いながら、翔太は深く息をついた。
「翔太さん、すごい!あんなにバレー上手かったんですね!」
「まあね、夢はプロだったから」
「そうだったんですね…!」
笑いながら話していると、男性が再び翔太の方に歩み寄ってきた。
「翔太」
「…あ、さっきの」
「元気そうで何より、というか、みんな死んでるから元気とかないけど」
「はは。実は僕、生前仲の良かった友人の名前が思い出せなくて、あなたもきっとその中の1人なんだ。ごめん、覚えていなくて」
「そっか」
男性は一瞬だけ俯き、そしてゆっくりと顔を上げる。
「俺は、山本湊」
そう言いながら、彼は優しく翔太の腕を掴み、ボールを手のひらにそっと乗せた。
「お前と一緒にバレーボールやってた」
「湊…」
「てかさ、今何やってんの?アトリエ?」
「…ああ!うん、僕、死ぬ前まで美術の大学にいて、この世界ではアトリエで絵画教室やってるんだ」
「へえ、案内してよ。俺、あんまり絵には詳しくないけど、今のお前のことを知りたい」
「うん!よし、3人でアトリエに帰ろう」
3人がアトリエに戻ると、リビングで作業中の岩崎と三浦が振り返る。
「おかえり…って、初めまして、教室のお客さん?」
「ううん、僕が生きてた時の友達らしい。僕思い出せなくて」
「ああ、そうなんだ。こんにちは、三浦透です」
「初めまして、山本湊です」
「覚えてないかもだけど、翔太が高校の時に転校してから、俺たち連絡取ってなかったから、何してるか全く知らなかった」
「そうなんだ…。転校したことはうっすら覚えてるけど、理由まではわかんないや」
「自分がどうして絵に興味を持ったのか覚えてる?俺、あの翔太が絵描きに興味を持つとは思ってなかったから」
「明確なきっかけ、あるよ」
高田翔太。
明るく、誰にでも分け隔てなく接する笑顔が魅力的な少年だった。
昼休みにはいつも人の輪の中心にいて、彼の周りだけ、空気が少しだけ明るくなった。
小さい頃に、両親に連れられて観に行ったバレーボールの試合。
天井の高い体育館で、ボールが床を打つ音、観客の歓声、選手の真剣な眼差し。
幼い翔太はその光景に目を奪われ、その日からバレー部に入ることを決めた。
持ち前の運動神経と努力で、すぐに県でも注目される選手となり、将来の夢はプロのバレー選手。
彼のまっすぐな夢を、誰もが本気で応援していた。
「翔太!今日の練習自主練って言ってたからサーブ練しようぜ」
「ごめん!ちょっと今日あんまり体調良くなくてさ、明後日時間あると思うからそこでもいい?」
「全然。てか大丈夫?風邪?」
「うーん、ちょっと喉痛くて熱も出そうな感じがあって。すぐ帰ってすぐ寝てすぐ治してくる!」
「そうか、大会無い今のうちにしっかり休んでな。じゃあな」
1週間後。
体育館にはボールを打つ乾いた音が響いていた。
翔太はその中で軽くストレッチをしながら、額の汗を拭う。
だが、その動きに少し違和感があった。
「うーん…」
「翔太?そろそろ練習試合始まるぞ」
「うん…。この前の風邪治ったと思ったんだけど、またぶり返したみたいでさ。花粉症かな…」
「マジ?お前も花粉症の仲間入り!?おいおい、たかが花粉症で~って言ってたやつが!」
「うわー、体調万全じゃないのくやしー」
翔太は笑ってみせたが、その笑顔の奥に、どこか薄い影が差していた。
試合中も、翔太の体調はどんどん悪くなっていった。
序盤こそいつも通りだったが、次第に足取りが重くなっていった。
走れば走るほど足が沈むように重く、ジャンプをすればするほど、足の裏がしびれていく。
呼吸も浅くなり、指先が少し震えていた。
「翔太ごめん!ちょっとトス低かった?」
「ああ、いや、僕が飛ぶの遅れただけだから大丈夫」
「オッケー。次サーブ」
「あ、うん」
この試合が終わったら早退しよう。
そう思いながら、翔太はボールを拾い上げ、深く息を吸った。
腕を引き、ボールを高く投げる。
その瞬間、世界が少し揺れた気がした。
「あっ」
踏み込みがうまくいかず、タイミングがずれる。
空中で体が回転し、視界がぐるりと反転。
床に叩きつけられる鈍い音。
「翔太!?どうした!?大丈夫!?」
「救急車呼んできます!」
「あ…え…?」
意識ははっきりしているのに、下半身を動かすことが出来ない。
仲間たちの顔が揺れ、視界が遠のいていく。
そのまま病院に運ばれ、精密検査を受けた。
「脊髄の炎症による下半身まひです。いくつか治療法はあるので、まずはそれらを試しましょう」
医師の言葉は、静かに、けれど確実に心の奥に沈んでいった。
訳も分からないまま、治療が始まった。
体に触れる機械の冷たさだけが現実で、それ以外のすべてが夢のように感じられた。
だが、どんな治療を試しても、足は動かない。
「先生、どうすれば僕の足は動くんですか」
震える声で問うと、医師は困ったように微笑んだ。
「もう少し今までとは違う治療をしてみよう、きっと翔太君に合うものがあるはずだから。大丈夫」
先生の優しい言葉を完全に信じることは出来なくなっていった。
数か月が過ぎた頃、医師の表情は以前よりも硬くなっていた。
「様々な治療を試しましたが、反応はどれも悪く、神経を再生することが非常に難しいです」
「そんな、じゃあ、翔太はもう、歩けないんですか」
母の声が震えた。
「今後の回復は、正直、可能性は低いです」
「…そんな」
自分の生きがいをこんなにすぐ奪われるとは思っていなかった。
何がいけなかったんだろう。
もっと早く病院に行けば良かった?
練習を休まずにいたのが悪かった?
誰も責められないことが、一番つらかった。
ある日、病院の読書スペースで時間をつぶしていた。
バレーのことを考えたくなくて、無意識に手近な新聞を取った。
「へえ、美術コンクール…」
小学生が大人も参加する全国のコンクールで優勝したという記事。
写真に写る女の子は、普通の子だった。
「…あ」
新聞をめくると、優勝した作品の絵が大きく載っていた。
小学生くらいの男の子がバレーボールで遊んでいる絵だった。
自分がコートで感じた空気、跳ねるボールの感触、仲間との息の合った動き。
それが紙の上で生き生きと表現されていて、胸がぎゅっと締め付けられるようだった。
気づけば翔太はその絵にくぎ付けになっていた。
年齢なんて関係ない。
まだ、自分らしく生きたい。
「…そんな、ことが」
短く呟いた湊の声は、少し掠れていた。
彼の視線が翔太の足元へと一瞬だけ落ちる。
「はは、今となってはバレー以外の生きがいを見つけられて、あの時の自分には感謝してるんだ」
翔太はそれに気づいたが、あえて何も言わず、いつものように笑った。
「ごめん、俺、全然知らなかった」
湊は拳を膝の上で強く握りしめた。
「いやいや、僕の方こそ湊のこと、なにも覚えてなくて、ごめん」
湊は眉間にしわを寄せて翔太の瞳をまっすぐに見つめた。
翔太は、相手を気遣うように柔らかく笑った。
生前の翔太も、きっと自分の気持ちを押し殺して相手のことを想う、優しい人だったのだろう。
颯太は、直感でそう思った。




