6.
村人たちは朝からの作業で手を動かしていた。
それぞれが忙しく動く中、男性が声を上げた。
「…裕介?」
「どうされました、野村さん」
もう1人の男性がタオルで顔をぬぐいながら答える。
「裕介はどこ行った」
「あれ、ゆうすけくーん」
「おい、みんな!あっちの空見てくれ!真っ黒な雲がこっちへ来てる。ありゃ大きいぞ」
風が木々の枝を揺らし、葉をざわざわと鳴らす。
「…裕介君、もしかしたら」
雨粒が地面を叩きつけ、周囲の音をかき消していく。
「岩崎…?あいつもどこいったんだ」
雨がぱらぱらから次第にざあざあと勢いを増す。
水面に雨の波紋が次々と広がる。
「みみたろう、この辺りにいつもいるのに…」
「…裕介君!」
「あ、岩崎おじさん!みみたろう…」
小さな声が雨にかき消されそうになりながらも、必死に呼んでいる。
「きっとどこかに避難しているよ、早くこっちに来て。雨が強くなるよ」
「う、うん」
「うわっ!」
その時、男の子の足が滑り、川の流れに捕まる。
「裕介君!!」
岩崎は咄嗟に川に飛び込み、冷たい水に全身を浸して男の子の顔を水面より上に持ち上げた。
「はあ、はあっ」
水位は膝までではなく腰まで達し、強い流れに体が押される。
岩崎は肩車のように男の子を抱き上げ、足元を必死に探す。
流れが速く、思わず顔を水中に入れ、安定できる浅瀬を見つけると、岩崎は勇気を振り絞り、男の子を投げ飛ばした。
男の子は川岸の岩をしっかりと掴み、雨に濡れながら叫ぶ。
「な、なんだ…!裕介君!?岩崎!?おおい、誰か!来てくれ!!」
「…は」
「…どうしましたか?岩崎さん?」
岩崎は肩の力を抜けず、手を少し握りしめたまま、目の前の川面をじっと見つめている。
「あ、あれ…。今のは…」
「もしかして、岩崎さん。思い出したんですか」
「これが、僕の記憶…」
さっきまで楽しそうに水をかけあっていた颯太と翔太も、動きを止めて岩崎に注目した。
川のせせらぎや、靴の先に跳ねる水滴の音が、いつもより鮮明に耳に届く。
岩崎は視線を下げ、再び水の冷たさを手に感じた。
その冷たさが、記憶の断片とともに胸の奥まで伝わっていく。
川から上がった4人は、足を乾かしながら岩崎の様子をうかがっていた。
流れの音が、まだ耳の奥に残っている。
「…」
表情からは何も読み取れない。
しかし、あまり自分のことを話したがらない岩崎を待っていても時間が過ぎるだけだった。
「…岩崎さん!」
しびれを切らした翔太が声をかける。
岩崎はゆっくりと翔太の方を向く。
「どうしました」
「とりあえず、アトリエに戻りましょうか?足も冷えちゃいますし」
「…そうですね」
三浦が立ち上がり、濡れた裾を軽く払う。
「さ、行こうか。風邪ひいちゃう前にね」
表情だけでは、岩崎が何を思っているのか誰もわからなかった。
しかし、思い出した記憶の中に、岩崎にとって重要なものがあったのは確かだ。
颯太は岩崎の方を心配そうに見上げたが、岩崎は無言のまま小さく頷き、歩き出した。
道の上では、靴の裏が乾いた砂を踏む音だけが響いた。
アトリエに戻ると、翔太が慣れた手つきで温かいハーブティーを用意した。
外で遊んだせいか、空気が少し甘く感じる。
「はい、どうぞ!」
翔太がマグカップを差し出すと、颯太と三浦が礼を言って受け取る。
湯気の向こうで、岩崎はまだ無言のままだった。
やがて、ソファに腰を下ろし、深く息を吐いた。
「…もしかして、僕が話すのを待っていますか」
三浦が苦笑いを浮かべる。
「すみません、無理に話していただかなくてももちろんいいですよ」
「いや、別に」
岩崎は視線を落とし、指先でカップの縁をなぞった。
「今まで、感じたことのない感覚だったもので…。頭を整理するので、いっぱいいっぱいでした」
翔太がそっと笑う。
「そりゃあ、思い出したばっかりですもんね。急に全部言葉にするのは、難しいですよ」
「…そうですね」
岩崎は微かにうなずいた。
窓の外で木々がざわめき、どこからか小鳥の鳴き声が聞こえた。
その静かな音が、岩崎の心を少しずつほぐしていくようだった。
岩崎悠真。
医者の家に生まれ、持ち前の真面目さと誠実さで、家業を継ぐ一本道を歩いていた。
大学を卒業後、父が経営する山間の静かな村の診療所に戻り、勤務を始めた。
中学進学の際に実家を離れてから、約10年。
懐かしい風景ではあったが、村の人々との距離は遠かった。
人付き合いが得意ではない性格もあり、岩崎はただ黙々と仕事をこなす日々を送っていた。
ある日の夕方。
診療所の時計の針が、19時を少し過ぎたころだった。
「…残念ながら」
その一言が、世界の音をすべて奪った。
両親が急逝した。
帰郷してから、わずか半年後のことだった。
家の中は荒らされ、家具は倒れ、血の跡が残っていた。
強盗殺人事件として処理されたが、犯人は捕まらなかった。
その日、岩崎は診療所の奥のベッドで居眠りをしており、帰宅していなかった。
それ以来、村の空気は変わった。
「あいつが帰ってきたから強盗が来たんだ」
「というか、まだ捕まってないんだって?犯人。あいつなんじゃないの」
「無口でいつもじろじろ睨みつけてきて、本当に怖い」
噂は静かに、しかし確実に岩崎の周囲を囲っていった。
診療所の患者も減り、村人たちは道ですれ違っても目を合わせなくなった。
それでも岩崎は、自分の人相の悪さと口下手さをよくわかっていた。
仕方ないと割り切り、ただ淡々と日々を過ごしていた。
ある日の午前。
「すみません!」
勢いよく扉が開いた。
びっくりして振り向くと、小さな男の子が、何かを必死に抱えて立っていた。
「うさぎが犬に噛まれちゃったみたいで、血が…」
少年の腕の中で、小さな白いうさぎがぐったりしていた。
毛の間から赤い血がにじみ出ている。
「…こちらへどうぞ」
岩崎は少しだけ迷ったあと、治療室に案内した。
慣れた手つきで傷口を洗い、縫合し、止血の包帯を巻いた。
「ありがとうございます…!お医者さんってやっぱりすごい…」
「いえ」
「あ、でも、僕、お金なくて…。おうちに行って貰ってくるので、待っててくれませんか?」
「お代はいりません」
「え?でも」
「大丈夫です」
岩崎は短くそう告げると、うさぎの体を優しく撫でた。
その様子を見ていた少年は、目を輝かせて言った。
「じゃ、じゃあ!僕、うさぎのお世話、手伝います!」
「…え?」
裕介と名乗る男の子は、うさぎの怪我が治るまで岩崎が面倒を見ると思っていたようだ。
岩崎は男の子が去った後野に返そうと考えていたので、思わぬ仕事が増えた。
それから数日、少年は毎朝のように診療所を訪れた。
「おはようございます!」
「どうも」
「みみたろう、元気?」
「昨日より落ち着いています」
裕介が撫でると、うさぎはその手に頭をこすりつける。
「か、かわいいいいいい…」
顔をほころばせる姿に、岩崎は思わず口元を緩めた。
うさぎは徐々に動けるようになり、退院の日がやってきた。
「みみたろう、絶対犬に近づいちゃだめだからね!僕と岩崎おじさんとの約束!ね?」
「うん、約束」
裕介は笑い、うさぎを両腕に抱えた。
その姿を見送る岩崎の胸の奥に、かすかに温かいものが灯った。
物心ついてから、誰かと約束をすることなんてなかった。
純粋な少年と小さな命を通じて、岩崎は人の優しさに触れ始めていた。
翌日。
朝の空気がまだひんやりとした頃、診療所の外から元気な声が響いた。
「岩崎おじさああああん!」
驚いて顔を上げると、裕介が全力で坂道を駆け下りてくる。
その腕の中には、小さな白い塊が揺れていた。
「ど、どうしましたか」
「みみたろうが昨日バイバイしたとこに帰ってきてたー!」
楽しそうにウサギを抱える姿を見て、岩崎は思わず笑った。
岩崎は小さく息を吐いた。
「無口で不愛想で面白みのない僕と、唯一仲良くしてくれた友人がいました。僕は、その子を助けようとして亡くなったんだ」
「なんか、岩崎さんらしい死因ですね」
「…」
「どうしましたか?」
「少し、気になることがあって」
「なんでも話してください!」
「あの子を、裕介君を、僕はちゃんと助けてあげられたのか、知りたい。…すみません、ちょっと重い話で」
「いえ、大丈夫です」
三浦はそっと頷いた。
短い沈黙の後、颯太が三浦に話しかけた。
「俺、岩崎さんの『想いの象徴』を探してあげたいです」
「うん、俺もそう思ってる」
「でも、普通はどういう風に象徴を探すんですか?」
「そうだな…。人によって違うけど、やっぱり町に行って沢山の物に触れてみるのが一番効率良いかな」
「うーん…」
こそこそ話している2人の様子が気になった翔太が間に入ってきた。
「どうしたの?」
「岩崎さんの象徴探しを手伝ってあげたいなと思ってて、でも、まだこの世界に詳しくないからどう助けてあげられるか分からなくて」
「うーん…。そうだ!気分転換に中心街に行かない?2人とも、隣町から来たんでしょ?この辺りのことはまだそこまで知らないはずだし」
「え!行きたいです!」
「よし!ちょっと休憩したらすぐ行くぞ!岩崎さああん!この後町に遊びに行きましょう!」
飛びぬけて明るい翔太の様子を見て、颯太と三浦は目を見合わせて笑った。




