2.
「実は、食べたり飲んだり、寝たりしなくてもこの世界では生きられる。だから本当は何もしなくてもいいんだけど、生きてた頃の習慣が残ってるのか、おいしいものを食べたくなっちゃうんだよねえ」
三浦は笑みを浮かべたまま続けた。
「お腹は空かないし、満腹にもならない。でも、味はちゃんと感じられるし、おいしいって感情も残ってる。だから、この世界の人はご飯を食べる人が多い」
「不思議ですね」
「でももっと不思議なのは、ここで出てくる食材とか道具とか、全部『この世界の何か』が準備してくれてるってこと。天使とか神様とか、そういうファンタジーに近いものが多分存在するんだ」
颯太は黙って話を聞いていた。
「やりたくないことは誰もしなくていい、お金もいらない、何をしても怒られないし、ルールもない。それでもしトラブルが起きたら…『この世界の何か』が、すべてを解決してくれる」
三浦の言葉にはどこか恐怖が混じっていた。
理不尽も、失敗も、争いさえも消えてしまう世界。
「でも、都合のいい夢のような世界っていうのも、良いことばかりではないよ」
三浦に案内されて、颯太は町の一角にある小さな定食屋に足を踏み入れた。
白い暖簾をくぐると、香ばしい醤油の匂いが鼻をくすぐる。
木のテーブルが並んだ店内には、ゆったりした時間が流れていた。
「いらっしゃい、三浦さん。あら、今日は新しい方も一緒なのね」
店員の女性がにこっと笑いながら、手慣れた動きでメニューを差し出した。
「俺はいつものからあげで、颯太くんは、何か食べたいものある?」
颯太もメニューを受け取り、テーブルに腰を下ろした。
三浦と店員が交わす何気ない会話と、厨房から響くおいしそうな音だけが聞こえる。
メニューを見つめながら、颯太は何を食べようかと迷った。
その中で、ふと視線が止まる。
「…じゃあ、焼き鮭定食をください」
やがて料理が運ばれ、湯気の立つ味噌汁と、艶のある白米、そしてふっくら焼き上げられた鮭が並べられた。
目の前の光景は、どこかで見覚えのある、あたたかい風景だった。
「いただきます」
2人そろって手を合わせ、食事が始まった。
一口、焼き鮭を口に入れる。
香ばしい香り、やわらかな塩気。
口の中に広がる優しい味わいに、心がじんわりとほどけていく。
その瞬間、記憶の奥がかすかに揺れた。
「…っ」
箸が止まった。
喉が詰まり、呼吸が浅くなる。
気づけば、目尻から自然と涙がこぼれていた。
「…颯太君?」
『記憶の象徴』は、焼き鮭ではなかった。
しかし、必ず触れたことのある感情が、そこにはあった。
「温かさとか、優しさとか、幸せだなとか、そういう思い出全部忘れちゃったんですね、俺は。もう二度と、家族や友人と一緒にいることはできないのに」
そう呟いた颯太に、三浦は言葉をかけなかった。
代わりに、そっとその頭を撫でた。
あたたかな手のひらが、子どものように震える体に触れた。
「…」
それを見て、店員の女性がそっと近づいてくる。
「大丈夫…?」
気づかわしげに声をかける店員に、颯太は目元を指でぬぐい、小さく笑った。
「…大丈夫です。ご飯、おいしいです」
そう答える声はまだ少しかすれていた。
食後、ふたりはまた公園へ戻ってきた。
颯太が最初に目を覚ました、あの草原。
整った芝の上に腰を下ろすと、静かな風が頬を撫でた。
「いい場所だよね、ここ。落ち着く」
三浦が空を見上げながら言った。
颯太は頷く。
さっきまで泣いていたとは思えないほど、心は不思議と穏やかだった。
「ねえ、颯太君」
「はい」
「何か、したいことはある?この世界には、記憶を取り戻すために、様々なものがそろってる。何でもできるよ」
三浦の声はやさしかった。
急かすでもなく、ただ問いかけているだけのように。
颯太は少しだけ考えたが、まだ頭の中は整理がつかない。
「正直…まだ分からないです。まだ混乱してるっていうか」
「うん、それでいいよ。ここは時間だけはたっぷりあるから、焦る必要はまったくない」
三浦はそう言って笑った。
風がまた吹いて、草の匂いを運んでくる。
「そういえば」
颯太がぽつりと言った。
「三浦さんと会う直前、山崎さんが俺に何か話そうとしていたような…」
「…三浦さんが?」
「はい。でも、もうこの辺りにはいなさそうですね」
颯太はあたりを見回すが、颯太と三浦以外の人はいない。
「この時間だったら多分、教会にいるんじゃないかな」
「教会?」
「前の世界に残していった人たちへの願いや、神様に人生への感謝を祈る場所があるんだ。行ってみる?」
数分ほど歩くと、重厚な木の扉が見えてきた。
教会の入口には色とりどりのステンドグラスがはめ込まれ、柔らかな光がゆらゆらと揺れている。
中へ入ると、静寂が広がった。
木の香りとろうそくの温かな灯りが迎えてくれる。
高い天井はアーチを描き、壁には古い絵画や彫刻が並んでいた。
前方の祭壇からは、聖歌隊の澄んだ歌声が響いていた。
その声は優しく空間を満たし、心の奥に静かに染み渡っていく。
颯太と三浦は木製の椅子に腰を下ろし、しばし耳を傾けた。
ここでは時間がいっそうゆっくりと流れているように感じられる。
胸のざわめきが少しずつ静まっていくのを、颯太は確かに感じていた。
やがて聖歌が終わり、教会の空気はさらに静かになった。
ろうそくの火が小さく揺れている。
ふと前の席を見ると、山崎が静かに座っているのが見えた。
「山崎さん」
声をかけると、山崎は目を開き、優しく微笑んだ。
「ああ、三浦君と、さっきの坊やか」
「三浦さんにこの世界のことを聞いて、なぜ自分がここにいるのかようやく知りました」
「そうか…」
「山崎さんは毎日ここに来ているんですか?」
「ああ…。死んだと思ったら、こんな世界が待っているなんて思わなかっただろう?」
山崎は冗談めかして言った。
「正直、あの世はもっとふわふわしてて、神様とか幻とか、そんな場所だと思ってました」
「驚くほど現世に近くてな。空の色も、風も、音も匂いも、生きていた頃と変わらん。もしかすると…ここはあの世ではなく、もうひとつの世界なのかもしれん」
「もうひとつの世界…」
三浦がゆっくりと反復する。
山崎は微笑んで、手を組んだ。
「わしらが生きていた世界よりも、この世界の方が、神様に願いが届きやすそうと思わんか?あの世も神様も、大体天の上にいるイメージだからな」
山崎はそう言って、また目を閉じた。
今までの世界では味わえない、どこか澄んだ空気と静けさが、この世界にはあった。
「ところで、坊やはこれから『記憶の象徴』を探すのかい?」
「あ!そうでした。山崎さん、さっき俺に何かを言いかけていたなと思って…」
「ああ、それでわしに会いに来てくれたのかい?」
「はい!」
「ははは、そうだったのか…ありがとう。三浦君から『想いの象徴』の話は聞いたかね?」
「…想い、ですか?聞いてないです」
「まだ記憶の方の話しかしてなかったよね。実は、自分の記憶を紐解くカギはもう1つあるんだ」
三浦の表情が少し引き締まり、声もはっきりとした調子に変わる。
「『想いの象徴』というものは、記憶を思い出した後、自分の未練や、他者との関係性などの人生についての未練を解くものなんだ。見つけられなくても転生はできるけど、あんまりそういう人はいない」
そう言って三浦は、隣の山崎に視線を向けた。
「というか山崎さん、未練あったんですね、初耳です」
「まあな…」
山崎は少し目を細めて笑った。
「この坊やの顔を見たら、息子のことを思い出してな。中学生くらいの子と話をするのは久々だったから」
颯太は胸の奥が熱くなるのを感じながら、思わず言葉を口にした。
「俺、山崎さんの未練を解消するお手伝いがしたいです」
颯太が言うと、山崎はにっこりとほほ笑んだ。
「ありがとう。わしの未練は、長男のことだ。あいつが今どんな顔で、どんな暮らしをしているのか少しでいいから知りたい。そして…」
「名前を、もう1回呼んでやりたかった」




