16.
夏休みの午後。
夢の家のリビングには、カーテン越しに強い日差しが差し込んでいた。
「颯太、この宿題やった?」
「見なくてもわかる。何にも手付けてないから絶対やってない」
「…なんだそれ。颯太、私の名前さ」
床に寝転がったまま、夢が言った。
「んー?」
颯太は腹ばいになって、夢の顔を覗き込む。
「なんで夢って名前なのか、知ってる?」
「えー、なんだろ。生まれて初めてしゃべった言葉?」
「そんなわけないでしょうが」
夢はむっとした顔をして、えんぴつを机でころころと転がした。
「ママがね、この子にはいっぱい夢を見てほしいから付けたって言ってたの」
「へー」
「夢を見てる間は、どんなにつらくても、ちゃんと生きてる証拠だからって」
「生きてる証拠…」
夢はそう言って、画用紙いっぱいに大きな花を描いた。
はみ出した線も、色の混ざりも、全部そのまま。
「だからさ」
少しだけ照れくさそうに、でも誇らしげに笑う。
「私、自分の名前、けっこう好きなんだ」
颯太は一瞬考えてから、真剣な顔で言った。
「じゃあさ、夢が無くなったら夢はどうすんの?」
「え?」
「大人になって、夢とか見なくなったら」
夢はきょとんとして、それから笑った。
「その時はさ、誰かの夢になればいいじゃん」
「…なにそれ」
「颯太の夢とか?」
颯太の耳が一気に熱くなる。
「は、はあ!?」
夢は楽しそうに笑った。
「冗談だよ。でも、名前ってそういうのだと思う」
「どういうの?」
「私がそこにいなくても、誰かが覚えてくれれば私は生き続けられるんだよ」
窓の外では、蝉が鳴いていた。
颯太と夢は、ゆっくりと部屋を出た。
扉が閉まる音が、やけに遠くに響く。
教会の入り口では、三浦が石段に腰を下ろしていた。
ステンドグラス越しの光が、床に淡く色を落としている。
「三浦さん」
声をかけると、三浦は顔を上げ、少し驚いたように目を瞬かせた。
「話、終わったみたいだね」
「はい」
夢が一歩前に出る。
「…ありがとうございます。私たちのわだかまり、ちゃんと解けました」
颯太も深く頭を下げた。
「本当に。三浦さんがいてくれなかったら、ここまで来られなかった」
三浦は小さく笑った。
「それならよかった」
一瞬の沈黙。
夢は意を決したように口を開く。
「…今度は、三浦さんの未練を解決しませんか?私、まだ三浦さんに何もしてあげられていない」
三浦の表情が、ほんの一瞬だけ固まった。
「いや」
きっぱりとした声だった。
「俺はいいんだ」
「でも」
「三浦さん、俺も…」
「大丈夫」
三浦は視線を外し、教会の扉を見上げる。
「誰かの未練を解決する役目こそが、俺の生きがいだから。十分もらったよ」
颯太は何も言えなかった。
「…そっか」
夢が静かにうなずく。
「三浦さんがそう望むのなら、分かりました。本当にありがとうございました」
「こちらこそ」
三浦は、ほんの少しだけ手を振った。
次の日。
夢遷記録局の窓口に立つと、そこには見慣れた後ろ姿があった。
「三浦さん!おはようございます」
振り返った三浦は、いつもの調子で笑う。
「待ってたよ」
窓口の奥から、淡々とした声が響く。
「相沢夢さん、桜井颯太さん。お2人とも転生可能です」
三浦が事務的な書類を差し出しながら説明する。
「転生後、記憶は持ち越せません。同じ人生をやり直すこともできません。別の人生として、新たに始まります」
夢と颯太は顔を見合わせ、うなずいた。
「…覚悟は、できてます」
「うん」
手続きは驚くほどあっさりと終わった。
そのあと2人は、颯太が最初に目覚めた公園へ向かった。
同じベンチ。
同じ木々。
でも、どこか違って見える世界。
並んで腰を下ろす。
「懐かしい。山崎さんと三浦さんとここで出会ったんだ」
颯太が笑う。
「良いところだね。眠たくなっちゃう」
「ふふ」
風が葉を揺らす音だけが流れる。
「そうだ。夢はどうして翔太さんのところ、岩崎絵画教室に行ったの?」
「パン屋のお客さんがチラシを見せてくれたの。その時、なんかぼんやり絵を描きたいなと思って、1人で行ったの」
「へえ、偶然だったんだ」
「そうだね」
「ねえ」
夢が言う。
「颯太ってどこに進学する予定だったの?」
「白鷺高校」
「え!そうなんだ。なんで?」
「家からも近いし、バレーもちゃんとやってるとこだし、偏差値もよさそうだったからね」
「へえ…」
夢は曖昧に頷き、指先で自分の袖をいじった。
「夢は?」
「私は、どこだったっけな…」
「大道寺?」
「ああ、そうそう」
「まあそうだよな。絵のとこだもんな」
進路のこと、部活のこと、どうでもいい話。
生きていた頃なら、帰り道に何気なく交わしていたはずの会話。
2人がまだ生きていた時の、幼馴染の関係に戻ったような、そんな時間だった。
夕暮れが近づき、空が少しずつ白く溶けていく。
「…三浦さんから聞いたんだけどさ」
颯太は、言葉を選ぶように1拍置いた。
「自ら亡くなることを選んだ人は、記憶を取り戻した後、また、自ら命を絶ってしまうことがあるって」
夢は驚いた様子も見せず、静かに頷いた。
「うん」
「ごめん、こんなこと言って」
「ううん。私の場合は、今この瞬間の私が思い出して感じたことは、自分があまりにも間抜けだったなってだけ」
「そうなんだ」
「ただの妬みにしょぼくれて、しょうもない感情を絵を描くときにまで引きずって、1回の結果だけ気にして、何してたんだろって今では思うよ。この世界にも、生きていた時も、味方はたくさんいるんだからって気づいて」
颯太は、胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
「そうだね。ありがとう、言ってくれて」
「私は、颯太と出会ったこと、1度も後悔したことなかった。きっとこれからもそう」
「…転生したら、本当に、今までの記憶全部」
「それは考えない約束でしょ」
彼女は真っ直ぐ前を見ていた。
「私も颯太も、前に進むの」
「うん」
名前のない色に包まれながら、2人はしばらく、何も言わずにそこに座っていた。
数日後。
転生の日。
夢遷記録局の最奥。
普段は立ち入ることのない廊下の先に、静かな部屋があった。
天井は高く、壁は淡い石色。
窓はないが、不思議と閉塞感はない。
どこからともなく柔らかな光が満ちている。
部屋の正面には、1枚の扉が立っていた。
古い教会で見たことのあるような木製の扉。
取っ手はなく、触れれば自然に開くのだと、直感で分かる。
「ここが」
夢が小さく呟く。
「転生の扉だよ」
三浦が答えた。
いつもより少しだけ声が低く感じた。
颯太は扉から目を離せずにいた。
思ったよりも、現実的だった。
怖くなるほど派手な光も、終わりを告げる鐘もない。
「意外と、普通ですね」
「そうだね」
三浦は苦笑する。
「こういうのはシンプルなのが1番なんだよ」
夢が1歩、颯太の方へ近づいた。
「…ね」
言葉は要らなかった。
ほんの一瞬、抱きしめる。
長くはできない。
離れがたいけれど、それでも。
「ありがとう」
夢が言う。
颯太が返す。
「俺も」
夢は小さく笑って、三浦の方を見る。
「三浦さん」
「なに?」
「…私を見つけてくれて、ありがとうございました」
三浦は少しだけ目を伏せてから、うなずいた。
「来世でもお幸せに」
夢は扉の前に立つ。
扉に手を触れると、静かに、抵抗なく開いた。
向こう側は、白い霧のような空間だった。
足元が見えないほど深くはない。
ただ、確かに先がある。
夢は振り返る。
「颯太」
名前を呼ぶ声は、もう震えていなかった。
颯太は何も言わず、うなずく。
夢が1歩、扉の中へ踏み出す。
輪郭が、少しずつ淡くなる。
消えるのではなく、この世界からそっと手を放していくように。
最後に見えたのは、安堵したような、穏やかな笑顔だった。
扉は静かに閉じた。
室内には、しばらく沈黙が残る。
三浦が息を吐く。
「…次は、君だ」
颯太はうなずき、扉の前に立った。
「三浦さん」
「ん?」
「三浦さん、最初に言ってました。『都合のいい夢のような世界っていうのも、良いことばかりではない』って。ここにはいつでも来れるから、どうせなら次会うときは来世で会いましょう?」
三浦は一瞬だけ目を見開き、すぐにいつもの顔に戻る。
「そうだね」
颯太は扉に触れる。
冷たくも、温かくもない感触。
「行ってきます」
扉の向こうへ足を踏み出した瞬間、音が遠ざかり、色が薄れ、桜井颯太という名前だけが、ゆっくりとほどけていく。
こうなることは運命で決まっていた。
生まれた時点で決まっている。
三浦は、閉じた扉を見つめたまま動かなかった。
しばらくして、小さく呟く。
「…またどこかで」
扉の向こうで、
2人はそれぞれ、新しい人生へと歩き出した。




