15.
朝の光が薄いカーテンを透かし、
簡素な宿泊所の部屋に静かに差し込んでいた。
颯太は寝ぼけ眼で布団から起き上がり、隣の部屋をノックした。
しかし、何度ノックをしても反応が無い。
罪悪感を感じながらドアノブをひねると、扉が簡単に開いた。
部屋の中を軽くのぞくと、ベッドの毛布がきれいにたたまれているのが見えた。
「…え?」
途端に心臓が跳ねあがる。
「天音?天音!」
部屋の中に入り、名前を呼ぶ。
しかし返事はない。
洗面所にもいない。
食堂にもいない。
颯太の顔から血の気が一瞬で引いた。
「…また、いなくなった…?」
その呟きは、ほとんど震えていた。
颯太の脳裏に、昨夜の告白がよぎる。
「俺のせいだ…また…俺のところから…?」
「落ち着いて」
背後から三浦の声が飛んできた。
颯太が振り向くと、三浦は腕を組んで壁にもたれていた。
しかしその表情は、いつになく真剣だった。
「落ち着けって…。どうすれば落ち着けるのか、分かんない」
「ただ散歩に出かけてるだけかもしれないでしょ。冷静になって?」
三浦は静かに言った。
言われてみれば、天音の荷物は部屋にそのままだった。
外出用の上着も残っている。
靴も揃えて置かれていた。
「…そっか、うん。ちょっと不安になりすぎてた」
颯太は大きく息を吸い、ようやく少し落ち着いてきた。
しかし胸の奥のざわつきだけは消えない。
「昨日の告白の後、夢ちゃんが何を思ったか、何を思い出したのか、聞くんでしょ」
颯太は小さく呟いた。
三浦も黙って頷く。
「行こう」
2人は宿を出て、朝の光に満ちた町へ足を踏み出した。
町を歩き回り、広場も、商店街も、夢遷記録局も寄った。
だが夢の姿はどこにもない。
太陽が高くなり、影が短くなる頃、三浦がふと思い出したように言った。
「あとは…。あ!教会とかは?」
颯太はハッとした。
「もしかして、自分の絵を見に行ってるかもしれない」
「なるほどね…行こう」
2人は教会へ向かう石畳の坂を駆け上がった。
サワサワと木々が揺れ、心臓の鼓動が早まっていく。
古い教会の扉は半分開いていた。
中から、柔らかい光が漏れている。
颯太は息を呑んだ。
「…夢」
三浦が目線で「行け」と促す。
颯太はそっと扉を押した。
ギィ…という木の音が静かな空間に響き渡る。
教会に入ってすぐ横の空間。
美術館のようにきれいに作品が飾られている。
颯太がこの世界に来て初めて出会った人物、山崎重雄が教会に寄贈した桜の絵。
夢はその絵の目の前に立ち、作品を見つめていた。
「……天音ちゃん」
颯太が呼ぶと、彼女はゆっくりと振り返った。
目が合った瞬間、颯太は息を飲む。
その瞳には、思い出してしまった全てが宿っていた。
透き通った声で夢は言う。
「颯太」
胸が締めつけられる沈黙。
颯太はゆっくりと一歩踏み出した。
三浦は入り口に残り、2人の邪魔にならないように視線をそらす。
教会の光の中で、天音の涙が静かに落ちた。
「思い出した。全部」
颯太はただ、彼女を受け止めるようにそばへ歩み寄った。
相沢夢。
一人娘として生まれ、幼いころから惜しみない愛情に包まれて育った子どもだった。
絵を描くことが趣味だった母の影響で、気がつけばいつもクレヨンを握っていた。
ある日、幼稚園で描いた絵が保育士と園長の目に留まり、その才能を褒められた。
夢自身もその反応が嬉しく、絵を描けば誰かが笑顔になるという体験は、彼女をますます絵の世界へ引きこんでいった。
中学校に入学した夢は迷わず美術部に入部し、さらに腕を伸ばしていった。
同級生や顧問の先生はその才能を認め、夢は自然と中心的な存在になっていった。
ただ1人、美術部の部長だけは違った。
パレットを落としたとき。
施錠された美術室に忘れ物をしたとき。
テストの点が少し悪かったとき。
月に一度あるかないかの些細な失敗に、部長は執拗に大きな声で批判し、時に嫌味を投げつけた。
「なんでこんなこともできないの?」
誰がどう見ても夢の絵に才能に嫉妬していた。
夢は最初こそ嫌われているだけと気にしないように振る舞ったが、繰り返されるうちに心は少しずつ削られていった。
やがてその態度は上級生にも広まり、気づけば3年生、2年生の一部までが夢を邪険に扱うようになっていた。
きっかけは、夢が美術コンクールで偶然、人気アイドルと出会ってしまったことだった。
テレビにほとんど興味のない夢は、その人物がどれほど女子高生の間で騒がれている存在なのかを知らなかった。
けれど、相手は絵が趣味で、作品を前にしたふたりの会話は驚くほど自然に弾んだ。
その様子を取材に来ていた記者が写真に収め、ネットニュースの記事として掲載した。
翌日、学校はざわつき、廊下で浴びる視線の温度が明らかに変わっていた。
「なんであいつが」
まるで根拠のない嫉妬に火がついたように、噂は瞬く間に広がった。
気づけば、夢の周囲にはほとんど味方がいなくなっていた。
冷たい視線と、理由のない悪意の間で、彼女の居場所はどんどん狭くなっていった。
閉じた扉の中で、夢は徐々に追い詰められていった。
そしてある1月の美術コンクール。
美術部全員が出品したその場で、夢の作品は参加賞、部長の作品は銅賞を受賞した。
「私には、もう価値が無いのかな」
その瞬間、何かが決定的に折れた。
誰にも言えなかった悔しさも、孤独も、積み重なった悪意も。
すべてが夢の心を締め付け、彼女は静かに限界へと追い込まれていった。
それが彼女が自ら命を絶つきっかけとなった。
「颯太もそうだと思うけど、私、颯太とちゃんと話がしたかった」
「うん。俺も」
沈黙が落ちる。
それを破るように夢がうつむいて言葉を続けた。
「…その、ね。私のこと、探してたんだ」
「あ…うん、そう」
「まず、ごめんね。私のせいで、颯太に辛い思いさせたよね」
「ぃや、そんな、夢は悪くないから…。俺の方が、悪かった」
夢は眉をひそめ、少し困った顔をした。
「…あの、申し訳ないんだけどさ。颯太は何に対して私に悪いと思ってたの?あんまりピンと来てなくて」
「…は?」
「なんか私のこと傷つけたって言ってたじゃん?あれ、何のことなのかいまいち思い出せないんだけど、なに?」
颯太は頭を抱えるように、空を見上げた。
「ああー…。まじか、まじかあ~…」
「え?」
言葉にしようとした瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられ、涙がひと粒だけ落ちた。
「あの日、俺が電話した時、めちゃくちゃ嫌な態度取ってさ。それを俺、めちゃくちゃ後悔してて。そのせいで、夢が俺の前からいなくなったのかなってずっと思ってた」
「ああ、そういえばそうだったね。思春期だなって思ってた」
「う…」
「ごめんね。もう、颯太を置いて死んだりしないから」
「…うん」
その言葉が胸に痛いほど沁みて、颯太はゆっくり夢の方を向いた。
「俺が生まれ変わって、また夢にちゃんと向き合えずに、自分のプライドばっかり気にするような人間になるかもしれない。その時は、俺の事ぶんなぐっていいから」
夢は軽く吹き出した。
「ふふ、分かった。思いっきり殴る」
「…やっぱり1回話し合ってほしい」
「あはは!」
外の風が静まり、ふたりの間に柔らかな沈黙が落ちる。
颯太は拳を握り、深呼吸し、意を決したように口を開いた。
「夢」
「なに?」
「俺、夢のことが好き」
夢は一瞬驚いたように目を瞬き、そして少し頬を赤らめながら言った。
「…まあ、知ってる」
「ぐ、そ、そっか…」
「だって、ずーっとバレバレだったもん。私のこと見てる時だけ、顔に好きですって書いてあったよ」
「や、やめて…」
夢はくすっと笑い、少しだけ颯太に寄り添った。
窓から差し込む光が、夢が描いた桜の木をきらきらと照らしていた。




