13.
翌日の午後。
天音は丘の上にいた。
膝の上のスケッチブックに、鉛筆の線が静かに走っていた。
光が滲むように重なり、少しずつ絵の中に命が宿っていく。
颯太は木陰の下からその姿を見守っていた。
天音は描くたびに顔を上げて、空を見たり、海を見たりしていた。
その仕草がやけに丁寧で、まるで風の音まで確かめているようだった。
彼女の指先が紙の上をすべるたびに、時間が少しだけ緩やかに流れていく。
ああ、やっぱり俺は恵まれていたんだな。
ふと、彼女の姿を見て感じた。
やがて、天音はスケッチを描き終えると、小さなフレームを取り出した。
絵の端を整え、丁寧に木枠にはめ込む。
陽の光を受けて、完成した絵がほのかに光った。
「できた。我ながらいい作品ができたかな」
天音がそう言って笑った。
「ただいま」
「おかえりなさい。颯太君はおはよう」
「おはようございます!」
天音がそっと颯太の袖を引き、耳元でささやく。
「…ねえ、これ、どうやって渡せばいいと思う…?」
「え?」
「香織さんの誕生日ってまだまだ先だし、なんて言って渡すのが自然かなって…ていうか喜んでくれるよね…??」
「いやいや、そう言われると俺まで緊張してくるじゃん」
「いやだって!」
「なに、2人でこそこそしてんの」
背後から三浦が声をかけてきた。
「天音ちゃんが香織さんに絵のプレゼントしたいらしいんだけど、なんでもない日にあげるの恥ずかしいって」
「え?そんなの『いつもの感謝です!』でいいんじゃない?行こう行こう」
「わわっ!」
三浦が天音の背中を軽く押し、そのまま裏でキッチン掃除をしている香織のところへ連れていく。
「篠原さん、ちょっといいですか?」
「はい?三浦さん…ん?天音ちゃん?」
「あの…これ」
天音は、自分で描いた絵をぎゅっと両手で押し付けるように差し出した。
「これ、えっと、いつもの感謝です」
「…わあ、きれいな絵」
香織は、天音が描いた絵をじっくり見るのは初めてだった。
その繊細な色づかいに、思わず見とれてしまう。
フレームの木の縁をそっと親指でなでる。
「このフレームは?」
「昨日のお祭りのバザーで売ってたやつです。模様とか雰囲気が優しくて…香織さんみたいだなって思って」
「…うれしい」
香織は胸にあたたかいものが広がるのを感じながら、もう一度フレームを見つめた。
「これは?」
絵とフレームの間に紙が挟まっていることに気が付いた。
「え?絵を入れた時に何か挟んじゃったっけ」
紙を取り出すと、そこには『香織へ』と書かれた手紙。
その文字を見た瞬間、香織の心臓がどきんと高鳴った。
香織は、誰とでもすぐに打ち解けられる社交的な性格だった。
その明るさは周囲の人間を惹きつけたが、本人の気づかぬところで、境界線の甘さが浮つきとして現れることもあった。
きっかけは、ある日夫と交わした、ほんの些細な言い争いだった。
原因は明らかに夫側にあるもので、いつもなら笑って流すはずの香織も、その日はどうしても胸にしこりが残ってしまった。
「…もうやってられない」
そうつぶやきながら、香織は古くからの友人である男性と居酒屋で会い、胸の内を吐き出した。
「香織にしては珍しいな、こんなに喧嘩が長引いてるなんて」
「最近旦那も私も忙しくて余裕ないのは分かってるけど、あの人は流石に私を舐めすぎ」
久しぶりに感情をさらけ出したせいか酒の回りは早く、気付けば香織は椅子に寄りかかるようにして眠り込んでいた。
「おーい、寝てるうちに終電無くなっちゃったぞ。…とりあえず俺ん家来な」
「んぅ…、いや…だんなに来てもらぅ…から」
「そんなんじゃ無理だよ、ほら、腕貸して?」
その言葉に抵抗できないほど、意識はぼんやりとしていた。
そして、その夜の記憶は霧の中に消えた。
数か月後、妊娠が発覚した。
しかし、計算がどうしても合わない。
夫の子ではありえなかった。
怒号が家に響いた。
夫は烈火のごとく怒り、香織も必死に弁解したが、話は収まるどころか悪化していくばかりだった。
その日を境に、夫は変わった。
いや、壊れていった。
壊したのは、誰でもない私。
仕事で少しでも思い通りにならないと、声を荒らげた。
取引先に怒鳴り、会議に無理やり割り込み、店に来る常連客にすら噛みつくように不機嫌をぶつけた。
「俺をないがしろにしているだろ?」
「また俺を馬鹿にしたのか?」
ちょっとした表情、言葉の端、スマホを見る動作。
何でも、夫の怒りを引き起こす火種になった。
香織は必死に諭し、落ち着かせようとした。
だが、彼の激情は日に日に強まり、手のつけられないものへと変貌していった。
そして、ある夜だった。
店内で夫の感情が爆発した。
怒鳴り散らし、テーブルを叩き、香織だけでなくその場にいた客にまで手を伸ばしそうになる。
「やめて!お客さんに迷惑…」
その声すら、夫をさらに逆上させるだけだった。
その晩、家に戻ってからも怒りは収まらなかった。
また始まる罵声、応じたくても応じられない疲労、積み重なった誤解と憎悪。
言い返した瞬間だった。
夫の手が香織の肩を強く押し、バランスを崩した彼女は後ろへ倒れ込んだ。
鈍い音が響く。
床に頭を打ちつけ、香織の体が動かなくなる。
静寂が訪れた。
「……え?」
夫の顔から怒りの色が消え、代わりに血の気が引いていく。
呼吸が荒くなり、震える手が香織の頬に触れた。
「……おい……香織……?」
自分が最悪のかたちで一線を越えてしまったことを理解した時、夫の心に押し寄せたのは、怒りでも憤りでもなかった。
ただ、深く、底なしの後悔だけだった。
香織は、震える指先でそっと手紙の封を開いた。
中から出てきたのは、見慣れた夫の癖のある筆跡だった。
拘置所で書かれた手紙、香織はそれを理解すると、胸の奥がきゅっと痛んだ。
香織はゆっくりと文字を追い始める。
香織へ。
君がこの手紙を読むことはないけど、手紙を書く。
内心、本当は読んでほしい、君に伝えたいと思ってるからペンを握っているのかな。
よく分からないよ。
俺はもう、君に会う資格なんてないのに。
文章は最初から謝罪で埋め尽くされていた。
怒りを抑えられなかったこと。
壊してしまったこと。
守るはずの人を、守れなかったこと。
そしてふいに、香織の視界がにじむ一文が現れた。
木の写真立て、覚えてるか。
結婚して3年目に俺がプレゼントしたやつだ。
あれの裏に挟んであった手紙を見つけたんだ。
香織の呼吸が止まった。
写真立てと写真の隙間に、香織が密かに忍ばせていた小さな手紙。
「何があっても、あなたと一緒にいられればそれでいい」
「いつまでも笑っていたい」
そんな幼い願いを書いた、彼女自身忘れかけていた1枚。
あのとき素直になれなくて、ごめん。
あんな言葉をもらってたのに、俺はどうしようもなかった。
もちろん、俺以外のやつとの子どもと分かった時、許せなかった。
でも、当事者の俺なら、今なら分かる。
冷静になって香織の気持ちを知れば良かった。
謝れば良かった。
あの時向き合えていれば。
もう遅いのにな。
ごめん。ごめん。香織。
俺は、君がいない世界に、何を償えばいいんだろう。
手紙の最後は字がゆがみ、涙でにじんだ跡のような水滴の跡が残されていた。
「……あ……っ……」
香織は膝から崩れ落ち、そのままフレームを胸に抱き締めた。
嗚咽が喉を震わせ、涙が次々とこぼれ落ちる。
天音が慌てて駆け寄る。
「か、香織さん!?どうしたの、大丈夫…?」
「……ごめん……っ、ごめんね……天音ちゃん……」
声にならない声で、香織は天音の手を必死に握った。
「私……こんな……そっか……」
香織の涙は止まらなかった。
天音は何も言えず、ただそばに寄り添い、香織の震える背中に手を添えるしかなかった。
香織は泣き腫らした目のまま、手紙と額縁を胸に抱きながら、ゆっくりと立ち上がった。
天音は心配そうに寄り添っていたが、香織はふるりと首を振る。
「ごめんね。天音ちゃん、少しだけ、三浦さんと2人にしてくれる?」
「…分かった」
天音と颯太が店の外へ出ていくと、香織は力なく三浦に視線を向けた。
見たことのない表情に、三浦の表情がわずかに曇った。
小さなバックヤード。
静まり返った空間で、香織はぽつりぽつりと話し始めた。
「私、あの子を自分の罪で縛り付けてた。天音ちゃん、あの子は何も知らないのにそんな名前で呼んで、幸せにしてあげたつもりで、…全部、自己満足だったんだなって」
三浦はすぐには言葉を返さなかった。
香織の背負うものがあまりにも重く、どんな慰めも薄っぺらく聞こえてしまう気がした。
「だから、三浦さんに頼みがある」
「うん、聞くよ」
ただ静かに、目の前で泣き続ける香織を見守った。
香織は深夜のパン屋の椅子にひとり腰掛け、指先に残る涙の跡をそっと拭った。
昼間に天音へ渡された絵、そして額縁に挟まれていた夫の手紙。
そのすべてが胸の奥底に沈んでいたものを掘り起こし、静かに形を与えていく。
私は、自分が思っていた以上に愚かだった。
夫への怒りも、裏切りも、自分を守るために積み上げた感情の壁も、すべてがぐらりと揺らいでいた。
あのとき、夫が変わってしまった理由。
自分のどんな行動が彼を追い詰め、嫉妬を煽り、激情を呼び起こしたのか。
「私が守っていたのは、思い出したくなかったのは、私のわがまま」
初めて、そう口にできた。
すると胸を締めつけていた重いしこりが、ふっとほどけていくように軽くなる。
ただ静かに、自分の過ちを受け止める。
その瞬間、香織の心にかかっていた未練はそっと解けた。
深い後悔も、恐れも、ひどく曇った感情も、不思議と波のように静まり返っていた。
次の日の夕方、香織は焼き上がったパンを並べながら、天音に向き合った。
「天音ちゃん、今いい?」
天音は驚いたように顔を上げる。
「うん、なに?」
香織はゆっくりと呼吸を整えると、まっすぐに言った。
「1つお願いがあるの」
「お願い?」
「天音ちゃんには、三浦さんと颯太君と一緒にいろんな経験をしてほしい。だから…私とお別れしてほしい」
天音の目が大きく開かれた。
香織はすぐに誤解させないよう、急いで言葉を重ねる。
「天音ちゃんのことは大好きだよ。でも、もうあなたと一緒にいられない。私のわがまま」
「それは、香織さんの未練と関係があるの?」
「そう」
天音はしばらく黙って香織の表情を見つめ、やがてゆっくりとまばたきをした。
「…香織さんがそう思うなら、分かった」
その声には寂しさと、どこか大人びた決意が入り混じっていた。
香織は小さく微笑んだ。
「ありがとう、天音ちゃん。あの2人ならちゃんとあなたのことを受け入れてくれるから」
「うん」
天音はそっと頷き、店の匂いと光景を目に焼きつけるように見渡した。
夕日が隠れる頃、天音は荷物をまとめて玄関に立っていた。
香織は必死に涙をこらえながら、扉の前で両手を握りしめて立ち尽くしている。
そんな香織の様子を見て、天音は軽く笑ってみせた。
「香織さんにはちゃんと、幸せになってほしい」
香織の足元で、涙がぽたりと落ちる。
天音はその涙を見て、そっと香織に抱きついた。
「今までありがとう。香織さんが私にくれた全部は、嘘じゃなかったよ。またね」
そう言い残し、天音は颯太と三浦の待つ外へ歩き出した。
扉が閉まる音はやけに静かで、
香織は胸の奥に広がる痛みを確かめるように、そっと目を閉じた。
それでも、心は不思議なほど穏やかだった。




