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夢の終わりに桜は散る  作者: りん


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13/17

13.




翌日の午後。

天音は丘の上にいた。

膝の上のスケッチブックに、鉛筆の線が静かに走っていた。

光が滲むように重なり、少しずつ絵の中に命が宿っていく。

颯太は木陰の下からその姿を見守っていた。


天音は描くたびに顔を上げて、空を見たり、海を見たりしていた。

その仕草がやけに丁寧で、まるで風の音まで確かめているようだった。

彼女の指先が紙の上をすべるたびに、時間が少しだけ緩やかに流れていく。



ああ、やっぱり俺は恵まれていたんだな。

ふと、彼女の姿を見て感じた。



やがて、天音はスケッチを描き終えると、小さなフレームを取り出した。

絵の端を整え、丁寧に木枠にはめ込む。

陽の光を受けて、完成した絵がほのかに光った。


「できた。我ながらいい作品ができたかな」

天音がそう言って笑った。




「ただいま」


「おかえりなさい。颯太君はおはよう」


「おはようございます!」


天音がそっと颯太の袖を引き、耳元でささやく。

「…ねえ、これ、どうやって渡せばいいと思う…?」


「え?」


「香織さんの誕生日ってまだまだ先だし、なんて言って渡すのが自然かなって…ていうか喜んでくれるよね…??」


「いやいや、そう言われると俺まで緊張してくるじゃん」


「いやだって!」


「なに、2人でこそこそしてんの」

背後から三浦が声をかけてきた。


「天音ちゃんが香織さんに絵のプレゼントしたいらしいんだけど、なんでもない日にあげるの恥ずかしいって」


「え?そんなの『いつもの感謝です!』でいいんじゃない?行こう行こう」


「わわっ!」

三浦が天音の背中を軽く押し、そのまま裏でキッチン掃除をしている香織のところへ連れていく。


「篠原さん、ちょっといいですか?」


「はい?三浦さん…ん?天音ちゃん?」


「あの…これ」

天音は、自分で描いた絵をぎゅっと両手で押し付けるように差し出した。


「これ、えっと、いつもの感謝です」


「…わあ、きれいな絵」


香織は、天音が描いた絵をじっくり見るのは初めてだった。

その繊細な色づかいに、思わず見とれてしまう。


フレームの木の縁をそっと親指でなでる。


「このフレームは?」


「昨日のお祭りのバザーで売ってたやつです。模様とか雰囲気が優しくて…香織さんみたいだなって思って」


「…うれしい」


香織は胸にあたたかいものが広がるのを感じながら、もう一度フレームを見つめた。


「これは?」


絵とフレームの間に紙が挟まっていることに気が付いた。

「え?絵を入れた時に何か挟んじゃったっけ」


紙を取り出すと、そこには『香織へ』と書かれた手紙。


その文字を見た瞬間、香織の心臓がどきんと高鳴った。




香織は、誰とでもすぐに打ち解けられる社交的な性格だった。

その明るさは周囲の人間を惹きつけたが、本人の気づかぬところで、境界線の甘さが浮つきとして現れることもあった。


きっかけは、ある日夫と交わした、ほんの些細な言い争いだった。

原因は明らかに夫側にあるもので、いつもなら笑って流すはずの香織も、その日はどうしても胸にしこりが残ってしまった。


「…もうやってられない」


そうつぶやきながら、香織は古くからの友人である男性と居酒屋で会い、胸の内を吐き出した。


「香織にしては珍しいな、こんなに喧嘩が長引いてるなんて」


「最近旦那も私も忙しくて余裕ないのは分かってるけど、あの人は流石に私を舐めすぎ」


久しぶりに感情をさらけ出したせいか酒の回りは早く、気付けば香織は椅子に寄りかかるようにして眠り込んでいた。


「おーい、寝てるうちに終電無くなっちゃったぞ。…とりあえず俺ん家来な」


「んぅ…、いや…だんなに来てもらぅ…から」


「そんなんじゃ無理だよ、ほら、腕貸して?」


その言葉に抵抗できないほど、意識はぼんやりとしていた。


そして、その夜の記憶は霧の中に消えた。




数か月後、妊娠が発覚した。

しかし、計算がどうしても合わない。


夫の子ではありえなかった。



怒号が家に響いた。

夫は烈火のごとく怒り、香織も必死に弁解したが、話は収まるどころか悪化していくばかりだった。


その日を境に、夫は変わった。

いや、壊れていった。

壊したのは、誰でもない私。


仕事で少しでも思い通りにならないと、声を荒らげた。

取引先に怒鳴り、会議に無理やり割り込み、店に来る常連客にすら噛みつくように不機嫌をぶつけた。


「俺をないがしろにしているだろ?」


「また俺を馬鹿にしたのか?」


ちょっとした表情、言葉の端、スマホを見る動作。

何でも、夫の怒りを引き起こす火種になった。


香織は必死に諭し、落ち着かせようとした。

だが、彼の激情は日に日に強まり、手のつけられないものへと変貌していった。


そして、ある夜だった。


店内で夫の感情が爆発した。

怒鳴り散らし、テーブルを叩き、香織だけでなくその場にいた客にまで手を伸ばしそうになる。


「やめて!お客さんに迷惑…」


その声すら、夫をさらに逆上させるだけだった。




その晩、家に戻ってからも怒りは収まらなかった。

また始まる罵声、応じたくても応じられない疲労、積み重なった誤解と憎悪。


言い返した瞬間だった。


夫の手が香織の肩を強く押し、バランスを崩した彼女は後ろへ倒れ込んだ。

鈍い音が響く。

床に頭を打ちつけ、香織の体が動かなくなる。


静寂が訪れた。


「……え?」


夫の顔から怒りの色が消え、代わりに血の気が引いていく。

呼吸が荒くなり、震える手が香織の頬に触れた。


「……おい……香織……?」


自分が最悪のかたちで一線を越えてしまったことを理解した時、夫の心に押し寄せたのは、怒りでも憤りでもなかった。


ただ、深く、底なしの後悔だけだった。




香織は、震える指先でそっと手紙の封を開いた。

中から出てきたのは、見慣れた夫の癖のある筆跡だった。


拘置所で書かれた手紙、香織はそれを理解すると、胸の奥がきゅっと痛んだ。


香織はゆっくりと文字を追い始める。



香織へ。

君がこの手紙を読むことはないけど、手紙を書く。

内心、本当は読んでほしい、君に伝えたいと思ってるからペンを握っているのかな。

よく分からないよ。

俺はもう、君に会う資格なんてないのに。


文章は最初から謝罪で埋め尽くされていた。

怒りを抑えられなかったこと。

壊してしまったこと。

守るはずの人を、守れなかったこと。


そしてふいに、香織の視界がにじむ一文が現れた。


木の写真立て、覚えてるか。

結婚して3年目に俺がプレゼントしたやつだ。

あれの裏に挟んであった手紙を見つけたんだ。


香織の呼吸が止まった。



写真立てと写真の隙間に、香織が密かに忍ばせていた小さな手紙。


「何があっても、あなたと一緒にいられればそれでいい」


「いつまでも笑っていたい」


そんな幼い願いを書いた、彼女自身忘れかけていた1枚。



あのとき素直になれなくて、ごめん。

あんな言葉をもらってたのに、俺はどうしようもなかった。


もちろん、俺以外のやつとの子どもと分かった時、許せなかった。

でも、当事者の俺なら、今なら分かる。

冷静になって香織の気持ちを知れば良かった。

謝れば良かった。

あの時向き合えていれば。


もう遅いのにな。

ごめん。ごめん。香織。

俺は、君がいない世界に、何を償えばいいんだろう。


手紙の最後は字がゆがみ、涙でにじんだ跡のような水滴の跡が残されていた。



「……あ……っ……」


香織は膝から崩れ落ち、そのままフレームを胸に抱き締めた。

嗚咽が喉を震わせ、涙が次々とこぼれ落ちる。


天音が慌てて駆け寄る。


「か、香織さん!?どうしたの、大丈夫…?」


「……ごめん……っ、ごめんね……天音ちゃん……」

声にならない声で、香織は天音の手を必死に握った。


「私……こんな……そっか……」


香織の涙は止まらなかった。

天音は何も言えず、ただそばに寄り添い、香織の震える背中に手を添えるしかなかった。




香織は泣き腫らした目のまま、手紙と額縁を胸に抱きながら、ゆっくりと立ち上がった。

天音は心配そうに寄り添っていたが、香織はふるりと首を振る。


「ごめんね。天音ちゃん、少しだけ、三浦さんと2人にしてくれる?」


「…分かった」


天音と颯太が店の外へ出ていくと、香織は力なく三浦に視線を向けた。

見たことのない表情に、三浦の表情がわずかに曇った。


小さなバックヤード。

静まり返った空間で、香織はぽつりぽつりと話し始めた。



「私、あの子を自分の罪で縛り付けてた。天音ちゃん、あの子は何も知らないのにそんな名前で呼んで、幸せにしてあげたつもりで、…全部、自己満足だったんだなって」


三浦はすぐには言葉を返さなかった。

香織の背負うものがあまりにも重く、どんな慰めも薄っぺらく聞こえてしまう気がした。


「だから、三浦さんに頼みがある」


「うん、聞くよ」


ただ静かに、目の前で泣き続ける香織を見守った。




香織は深夜のパン屋の椅子にひとり腰掛け、指先に残る涙の跡をそっと拭った。

昼間に天音へ渡された絵、そして額縁に挟まれていた夫の手紙。

そのすべてが胸の奥底に沈んでいたものを掘り起こし、静かに形を与えていく。


私は、自分が思っていた以上に愚かだった。


夫への怒りも、裏切りも、自分を守るために積み上げた感情の壁も、すべてがぐらりと揺らいでいた。


あのとき、夫が変わってしまった理由。

自分のどんな行動が彼を追い詰め、嫉妬を煽り、激情を呼び起こしたのか。


「私が守っていたのは、思い出したくなかったのは、私のわがまま」


初めて、そう口にできた。

すると胸を締めつけていた重いしこりが、ふっとほどけていくように軽くなる。


ただ静かに、自分の過ちを受け止める。


その瞬間、香織の心にかかっていた未練はそっと解けた。

深い後悔も、恐れも、ひどく曇った感情も、不思議と波のように静まり返っていた。




次の日の夕方、香織は焼き上がったパンを並べながら、天音に向き合った。


「天音ちゃん、今いい?」


天音は驚いたように顔を上げる。

「うん、なに?」


香織はゆっくりと呼吸を整えると、まっすぐに言った。


「1つお願いがあるの」


「お願い?」


「天音ちゃんには、三浦さんと颯太君と一緒にいろんな経験をしてほしい。だから…私とお別れしてほしい」


天音の目が大きく開かれた。

香織はすぐに誤解させないよう、急いで言葉を重ねる。


「天音ちゃんのことは大好きだよ。でも、もうあなたと一緒にいられない。私のわがまま」


「それは、香織さんの未練と関係があるの?」


「そう」


天音はしばらく黙って香織の表情を見つめ、やがてゆっくりとまばたきをした。


「…香織さんがそう思うなら、分かった」


その声には寂しさと、どこか大人びた決意が入り混じっていた。


香織は小さく微笑んだ。


「ありがとう、天音ちゃん。あの2人ならちゃんとあなたのことを受け入れてくれるから」


「うん」


天音はそっと頷き、店の匂いと光景を目に焼きつけるように見渡した。



夕日が隠れる頃、天音は荷物をまとめて玄関に立っていた。

香織は必死に涙をこらえながら、扉の前で両手を握りしめて立ち尽くしている。


そんな香織の様子を見て、天音は軽く笑ってみせた。


「香織さんにはちゃんと、幸せになってほしい」


香織の足元で、涙がぽたりと落ちる。

天音はその涙を見て、そっと香織に抱きついた。


「今までありがとう。香織さんが私にくれた全部は、嘘じゃなかったよ。またね」


そう言い残し、天音は颯太と三浦の待つ外へ歩き出した。


扉が閉まる音はやけに静かで、

香織は胸の奥に広がる痛みを確かめるように、そっと目を閉じた。


それでも、心は不思議なほど穏やかだった。



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