12.
小さな鐘の音が鳴り、颯太と三浦が店に入る。
店内は焼きたてのパンの香りで満たされ、温かな雰囲気に包まれていた。
女性がカウンター越しに顔を上げる。
「まあ、また来てくださったんですね」
三浦は笑顔で軽く会釈する。
「さっきぶりです」
「今のおすすめは、焼きたてのオリーブのパンとクリームパンです」
三浦が匂いを吸い込むように深呼吸して、ぽつりと言った。
「…いい匂いだ」
「そうでしょう?」
女性は朗らかに笑う。
「パンは焼き上がる瞬間が1番いい香りなんです。お腹が空いていなくても、つい食べたくなっちゃうくらい」
颯太は並べられたパンを見ながら、さりげなく尋ねた。
「毎日これだけのパンを焼くの、大変じゃないですか?」
女性は少し肩をすくめて笑った。
「確かに忙しいですけどね。でも、人に食べてもらえると思うと不思議と頑張れるんです。…それに、私は人の笑顔を見るのが好きだから」
颯太はその言葉に頷きながら、彼女の表情を観察した。
「…前に来たときも思いましたが、この町の人たちにとても愛されているんですね」
「ありがとうございます。…そろそろ、聞いてもいいかしら」
「すぐ公園に行って、女の子に会ってきました」
「どうだった…?」
「…俺の、探していた人でした」
「ええ!!そっか、良かった…」
「あの!そのことについて、店主さんにお話ししたいことがあります」
「え、私?」
店の裏にある休憩室に案内してもらい、三浦と颯太は促されて椅子に座った。
「申し遅れました、篠原香織と申します。半年くらい前に天音ちゃんと出会って、行く当てのなかったあの子に声をかけて、今は一緒にこの上で住んでいるの」
「そうだったんですね」
「それで、天音ちゃんはなんて?」
「俺、まだ自分のことを打ち明ける勇気がなくて、この町の話を色々聞いていたら、篠原さんの未練についてのお話を聞いて」
「颯太君に、未練を一緒に解決してくれないかって言っていたそうですよ」
「なるほど…ふふ、なんかすみません、私なんかのことで」
「私の未練は、夫に関することです」
香織は湯飲みを両手で包み込み、視線を落とした。
「…夫は外では穏やかで、誰からも信頼される人でした」
篠原は少しずつ自分の話をし始めた。
思い出すのは、店先で笑顔を見せる夫の姿。
「奥さんの雑貨屋、いつも素敵ですね」
「ええ、ありがとうございます」
彼はにこやかに頭を下げ、隣で立つ香織の肩に手を置いた。
その手が、人前であるときだけ優しかった。
「でも、家では違っていて…」
小さな台所。
夕食の支度をしていた香織に、夫の声が飛んだ。
「誰と会っていた?またあの友達か」
「ただ一緒にお茶を飲んだだけよ、買い物ついでにちょっと行っただけだから」
「はあ?」
「今日は奥さんもいたの。2人きりじゃないし」
「俺に何も言わず男に会うなって、何回言ったら分かるんだ」
机を叩く音。
胸が縮む。
言い返したいのに、声が出なかった。
灯りの落ちた夜の居間。
「俺は間違っていない」
彼の目には固い確信だけがあった。
涙をこらえ、香織は心の中で叫んでいた。
(どうして…どうして分かってくれないの?)
夫は、香織が異性と関わることを極端に嫌っていた。
それでも、香織は完全には閉じこもれなかった。
もともと人付き合いが好きで、友人たちと話すことでやっと息ができる気がしていた。
だから、彼の命令を破って何度か友人に会いに行った。
そのたびに夫は怒り、香織を責め、暴力で言葉を封じた。
そんな日々の中で、妊娠がわかった。
お腹の子の存在に、香織はようやく光を見た気がした。
「この子が生まれたら、きっと何かが変わる」
そう信じていた。
しかし、彼は変わることはなかった。
ある日、香織はまた、友人と短い時間を過ごしてしまう。
その夜、夫は帰宅すると静かに問い詰め、そして、いつもの怒号が響いた。
翌朝、目を覚ましたとき、香織はもうこの世にはいなかった。
現在の休憩室に、静寂が戻る。
香織の声はかすかに震えていた。
「…それでも、私はあの人を完全に憎めなかった。外で見せる優しい顔も、本物の一部だったから。だからこそ、分からないんです…なぜ、あんなふうになってしまったのか、思い出せない」
「…」
「もし子どもを生むことが出来たら、天音という名前を付けようと思っていました」
「だから、天音という名前を」
「記憶を思い出す前にふと思いついた名前を天音ちゃんに付けたんだけど、記憶を取り戻してから申し訳ないことをしてしまったなと思ってます。天音ちゃんの名前を呼ぶたびに、夫のこと、自分の子どものことを考えてしまう」
「ただいま…あ、さっきの」
「こんにちは、お邪魔してます」
4人それぞれの目的は伏せたまま、この町で過ごすことになった。
毎日パン屋を訪れ、篠原、天音と仲を深めていった。
「天音ちゃんは何のパンが好きなの?」
「うーん、私はチョコが好きかな」
「このチョココロネとか?」
「そうそう!甘くておすすめ」
颯太と三浦は買い出しや仕込みを手伝い、会話の中で2人のことを知っていった。
颯太は何回か天音の絵を描く時間にもついて行った。
「颯太君は未練、あるの?」
「…ある」
「聞いてもいい?」
「俺のせいで、俺の大切な子が死んじゃった」
「…そうなの?」
颯太は肩を落とす。
「俺がもっと人の気持ちを考えられていれば、素直になれればこんなことにはならなかった」
「…過去は変えられないけど、未来と自分は変えられる」
「でも、その子の傷を完全に癒すことはできないって考えちゃう」
天音は小さく首を振った。
「完璧な人なんていない。どんな人でも嫌われたことのない人なんていない。颯太君は、それを理解して行動に移すことが出来る人だから、きっとなるようになる」
颯太はその言葉にハッとし、胸が少し軽くなる。
「…ありがとう、天音ちゃん」
天音は微笑む。
「うん。私たち、少しずつ前に進もう」
「ふわあ…」
颯太が大きく口を開けてあくびをした。
「もう眠いの?お祭りはまだこれからなのに」
「俺、今日めっちゃパンの仕込み頑張ったんだから!天音ちゃんが寝てたからさー」
「えへへ、ありがとう。颯太君のおかげで今めっちゃ元気」
海の匂いが混じる夜風が、頬を撫でていく。
潮騒の音が遠くで途切れ途切れに響き、砂浜には浴衣姿の人々が集まっていた。
空はまだ淡い群青で、波の向こうにわずかな夕焼けの名残が漂っている。
子どもの笑い声、屋台の呼び込み、金魚すくいの水音。
すべてが、これから始まる一瞬の輝きを待っているようだった。
颯太と天音は並んで歩いていた。
人の波が途切れず、足元の砂がやわらかく沈むたびに、草履が小さく鳴った。
「歩きづらいね」
天音は浴衣の裾を指でつまみながら笑った。
「ゆっくりでいいよ」
屋台の灯りが彼女の横顔を照らした。
金魚すくいの水面が反射して、頬に淡い光が揺れている。
海沿いの堤防の上には、すでに多くの人が腰を下ろしていた。
レジャーシートがカラフルに並び、屋台の提灯が風に揺れる。
遠くで太鼓の音が鳴り、打ち上げの合図が告げられた。
「始まるよ」
天音の声とほぼ同時に、夜空を裂くような音が響いた。
真っ黒な空に光の筋が走り、やがて大輪の花が咲いた。
赤、青、白、そして金色。
火の粉が海面に落ち、波に溶けていく。
歓声が上がる。
拍手が聞こえる。
光が一瞬だけ天音の瞳に映り込み、きらめいた。
「きれいだね」
彼女が呟くように言った。
颯太は隣を見た。
夜風に髪が揺れ、浴衣の袖が軽く触れた。
花火の音が大きくて、彼女の声が消えそうになる。
だから、彼は言葉を返さず、ただうなずいた。
「香織さんの象徴、なかなか見つけられなくてごめん」
「別に、私が半年くらいかけても見つからないんだから。そういうもんなんでしょ」
「うん」
「それに、颯太くんと三浦さんがきてから、とっても楽しい」
「…本当?」
「うん。前までは寂しいなって感じることもあったけど、今はいつも誰かが隣にいてくれるから寂しくなくなったの」
「…ありがとう」
「え?それ、私が言うセリフじゃない?」
「ああ、そっか。でも、ありがとう」
「夢みたい…」
「何が?」
「この、…あ」
「どうしたの?」
『夢みたい』
今まで避けていた『夢』という言葉。
思わず声に出てしまい、冷や汗が出る。
「あの、なんでもない」
「そう?でも、花火は何回見ても夢みたいに綺麗で儚いよね」
天音は颯太の様子を特に気にせず、花火に夢中になっていた。
「…ああ、うん」
内心では、夢のことばかり考えている日々だった。
自分はどうすればいいのか。
ひとまず、過去のことは考えないようにした。
ただ、隣にいる大切な人の笑顔を、守る責任があるだけだ。
やがて、花火はクライマックスを迎えた。
連続して打ち上がる音が胸に響き、夜空が金色に染まる。
一瞬の静寂のあと、最後の大玉が放たれた。
光が視界いっぱいに広がり、海面まで照らした。
その瞬間、天音が小さく呟いた。
「終わっちゃうね」
花火が消えたあとも、空の向こうに赤い残光が漂っていた。
颯太はしばらくその空を見上げたまま、何も言わなかった。
天音は浴衣の袖で口元を隠しながら、少し照れたように笑った。
その笑顔に、颯太はもう一度、花火のような光を見た気がした。
人混みのざわめきの中を歩いていると、波止場の近くに小さなバザーのようなテントが並んでいた。
木の棚には手作りのアクセサリーや小物が所狭しと並び、どれも少しずつ形が違う。
「ねえ、見て。かわいいのがあるよ」
天音が足を止めたのは、掌に収まるほどの木枠が積まれた一角だった。
それは手作りの小さなフレームで、素朴な木の温もりが残っている。
ひとつひとつ、微妙に木目の色が違い、どこか優しい光を放っていた。
「これ、香織さんにあげる?」
天音は少し考えてから、指先でフレームの角を撫でた。
「んー、どうしようかな…。なんとなく、絵を描きたくなって。そうだ」
その横顔には、少しだけ照れたような微笑みが浮かんでいた。
「この中に、私の絵を入れたら喜んでくれるかな」
「お、めっちゃいいじゃん、絶対香織さん喜ぶ」
「うん。明日、いつものとこで描こう」
天音はそう言って、袋の中のフレームを大切そうにしまった。




