11.
「…ん」
目が覚めると、外はすっかり暗くなっていた。
学校から帰ってきて、自室のベッドに寝転んだところ、そのまま寝てしまっていた。
「ふわあ…ねむ、今何時だ…」
手元に転がっていたスマホを手探りで探し出すと、画面の光が部屋をぼんやり照らした。
時計は18時を少し過ぎている。
「もう18時か…。あれ、母さん帰ってきたかな」
この時間なら、母がパートから戻ってきて、颯太と妹に家事の手伝いを呼びかけているはずだ。
けれど、食器の音も、テレビの音も聞こえない。
しんと静まり返った家の中に、胸の奥がざらつくような不安が広がっていく。
眠気はすっかり消え、颯太はゆっくりとリビングへ向かった。
薄暗い部屋に自分の足音だけが響く。
「まだ帰ってきてないのか」
リビングの電気をつけ、ソファに腰を下ろすが、予告のない1人の留守番に不安がよぎる。
やがて、玄関から激しく鍵を開ける音が聞こえた。
その音を聞いてすぐに玄関の方へ向かった。
「母さん、遅かっ」
「颯太!夢ちゃんがどこにいるか分からない?」
「は?…ゆ、夢?」
息を切らして帰ってきた母は、顔を真っ青にして颯太の方を見ていた。
「夢ちゃんが、今、家にいないらしいの。今日は習い事もないって言ってて」
「そうなんだ」
言葉の調子とは裏腹に、心臓の奥が小さく跳ねた。
夢は規律をばか真面目に守るタイプではなかった。
けれど、夜に何の連絡もせず外にいるような人間でもなかった。
「まあ、どうせ大丈夫でしょ」
「うーん…、ちょっと颯太から連絡1回してみてくれない?お願い」
「ああ、別にいいけど…。部屋でしてくる」
「うん、お願い」
夕飯の時間が遅れたことを直接文句として伝えようと、颯太は着信ボタンを押した。
コール音が鳴ると思っていたのに、想像よりも早く電話がつながり、拍子抜けと同時に母の心配は大げさだったと眉間にしわが寄る。
「もしもし」
少し間を置いて、かすれた声が返ってきた。
「…颯太?」
電話越しに、風とも水ともつかないざあざあとした環境音が混じる。
「お前今どこにいる?母さんが、お前がどっか行ったとか騒いでたけど」
「ああ、うん、えっと…」
「お前が門限破ろうが何しようと関係ないけど、俺に迷惑かけないで」
「…ごめ」
小さく漏れた謝罪の続きを聞く前に、颯太は電話を切った。
通話は数秒で終わったが、胸の奥に残ったざわつきは消えない。
久しぶりにまともに会話したことで生まれた気恥ずかしさと、自分の発言への後悔が入り混じり、しばらく部屋から出ることができなかった。
あの環境音が、大きな橋の下に響く水音だったことも。
夢が、泣きはらした顔のまま手すりにもたれていたことも。
もう一歩先に進めば戻れなくなる場所で、たった今、最後の思い出作りのように電話に出たのだということも。
彼は知らない。
数日後、夢は遺体となって帰ってきた。
死因は溺死、親族以外は夢の顔を見ることが出来なかった。
母からその話を聞いたとき、颯太は立っていられなくなった。
胃の奥からこみあげてくるものを抑えきれず、喉が焼けるように痛んだ。
あの日、あの時、夢は自ら?
その問いは、ずっと心の中で腐らずに残り続けた。
答えのないまま、今も。
あれは、温かい春の日だった。
「…」
颯太は自転車で坂道を登っていた。
本当は家族全員で行くはずだったが、今朝になって両親の仕事が急に入り、予定が変わってしまった。
花はすでに用意してしまっていたし、先方の都合もある。
妹はまだ幼いので、両親なしで連れていくことは出来ない。
だから結局、颯太ひとりで向かうことになった。
「颯太くん、来てくれてありがとう。きっと夢も喜んでる」
「…はい」
相沢家と刻まれた石の前に花を手向ける。
誰も知らない。
俺と夢が、最後に交わした言葉を。
みんな、どうして聞いてくれないんだろう。
許してほしいとか、君のせいじゃないと言ってほしいわけじゃない。
ただ。
「殴られるだけで許されるなら、俺はいくらでも殴られるのに」
ぼんやりとペダルを踏み、坂道を勢いよく下る。
空を見上げ、ため息をついたそのとき、右手からクラクションとブレーキの金切り音が響いた。
「…そうだった」
「ん?」
「夢は、夢の死因は、自ら海に入って、亡くなりました。ということは、夢も」
「そっか」
「俺、夢に会う資格、最初からなかったんだ…」
「詳しく話を聞いてもいい?」
「はい」
心の整理をするために、一旦電車を降りた。
ホームのベンチに腰を下ろすと、冷えた風が足もとを通り抜けていく。
三浦が自販機で買ってきたお茶を差し出す。
缶の冷たさが、かすかに震える手に伝わった。
「…なるほど」
「すみません、今まで思い出せなくて、こんなに大事なこと」
「いや、『思い出せない』ことはこの世界にとっては仕方のないことだから」
三浦は優しく笑った。
「今、考えてることがあって」
「うん」
「夢がもし記憶を取り戻していなかったとして、俺に再会したことがトリガーになって、今までの記憶を思い出してしまうんじゃないかって思ってて」
「うん」
「そうじゃないとしても、記憶を取り戻していたとしても、俺に会いたくはないだろうし。だったら会いに行かない方がいいんじゃないかって…」
「うん…」
三浦は否定も肯定もせず話を聞いていた。
「そうだな…難しい話ではあるね」
「…はい」
「俺たちがどんなに想像しても、夢ちゃんが颯太君をどう思っているのか、何が正解かは誰にも分からない。きっと、本人でさえも、その瞬間にならないと分からないと思う」
「そうですね…」
「正直、俺は今颯太君の味方だ。だから、会いに行ったほうが良いとしか言えない」
「はい」
「だから、颯太君はしっかり考えて」
「…」
何が正解なのか。
きっと、何も正解ではない。
「それでも、夢に会いたい気持ちは消えません。彼女がどう生きたのか、今どんな気持ちなのか、知る義務があります」
「…そっか。だったら俺はそれについて行くだけだね」
「…はい」
「よし!次の電車は10分後だね」
「はい」
再び電車に揺られながら、颯太は窓の外を見つめた。
気づけば、地平線の向こうに海が広がっていた。
淡い光が水面に反射して、線のように伸びていく。
電車には、颯太と三浦の2人だけ。
静寂の中、車輪の音が一定のリズムで続く。
やがて列車が減速し、軽やかな風の音が混じった。
ドアが開くと、潮の香りがふわりと頬を撫でる。
駅から離れ、町を歩いた。
人の気配はあまりなく、静かな雰囲気の街並みだが、夢が幼少期語っていた風景と似ている気がした。
「あ、このポスター」
三浦が指をさした方を見ると、建物の壁に花火大会が開催される内容のポスターが貼られていた。
「あそこの海岸でやるみたいだね」
「ここに、夢はいるのかな…」
ふらふらと町を歩いていると、おいしそうないい匂いが近くの店から漂ってきた。
「なんかおいしそうなにおいがする、颯太君行かない?」
「パンですかね、寄りましょう」
匂いのする方へ行くと、かわいらしい装飾が施されたこじんまりとしたパン屋が見つかった。
小さい店構えながらもたくさんのパンがきれいに陳列されていて、従業員の真面目さが表れていた。
店内には、町の雰囲気とは打って変わってお客さんでにぎわっていた。
「いらっしゃいませ」
1人の女性がかわいらしい笑顔で出迎えてくれた。
「うわあ、おいしそう。颯太君は何食べる?」
「俺は、何にしようかな…」
三浦と颯太はそれぞれパンを選んだ。
「この時間に珍しいですね。どうしてこの町に来られたんですか?あ、花火大会ですか?ああいや、花火は来週か」
「人探しで色んな町を巡っているんです」
「俺くらいの年齢の女の子なんですけど、耳が大きくて、二重で、あとなんだろう…」
言葉を探すように、颯太は視線を泳がせた。
「条件に合うかは分からないですけど、この町にも学生の子が住んでいますよ」
「そうなんですか?夢っていう子なんですけど、本人は記憶がないかもしれなくて…」
「そっか…。今の時間だと、北の高台にある公園にいると思いますよ」
「ありがとうございます!行ってみます」
颯太が頭を下げると、三浦も軽く会釈した。
店員は笑顔で手を振る。
「いえいえ、力になれることがあれば何でも言ってくださいね」
「パンもありがとうございました、また来ます」
店を出ると、ドアベルが軽やかに鳴った。
「颯太君」
「…はい」
「道こっちだよ」
「あ」
顔を引きつらせて速足で歩く颯太を見て、三浦が肩を叩いて落ち着かせる。
「ごめんなさい、ちょっと、焦っちゃって」
「うん、落ち着こう」
死後の世界、あまり中学生以下の子どもが少ないため、やっと手に入れた手がかりだったこともあり、颯太は焦りを抑えきれなかった。
「大丈夫だから」
「はい」
颯太は空を見上げて深呼吸をし、公園の階段を上がると、1人の女の子が海の方を見てベンチに座っていた。
肩よりも伸びたストレートヘアがさらさらと風になびき、日の光が髪の毛に当たって輝いている。
颯太が近づく足音に気づき、女の子はぱっと振り向いた。
颯太と女の子は見つめ合い、やがて女の子が口を開いた。
「…こんにちは」
「こんにちは」
女の子は数秒こちらを見た後、また海の方に頭を向けた。
颯太はそのまま女の子に近づいた。
やがて、女の子が絵を描いていることが分かった。
颯太は少し距離をとって歩み寄り、声をかけた。
「絵、とっても上手ですね」
「好きなんです」
女の子はあまりこちらに気を止めず絵を描いている。
颯太は女の子のその様子を見つめていた。
三浦は遠くで2人の様子を静かに見守り、どういう話をするかの判断を任せた。
「あ、あの」
「?」
「この町、海も自然もとってもきれいでいいところですね。風も気持ちよくて」
女の子は少し驚いたように振り向き、柔らかく微笑んだ。
颯太はその笑顔に胸が熱くなる。
「私もそう思います」
颯太は一瞬ためらいながらも、笑顔を作って言った。
「俺は…桜井颯太っていいます。夢遷記録局で働いています」
話がしやすいようにとっさに嘘をついた。
女の子は小さく瞬きをし、筆を止めてこちらを見た。
「夢遷記録局、若いのにすごい」
「人探しをしてて、たまたまこの町にたどり着いたら、とってもきれいないい町で」
女の子はわずかに警戒心をにじませながらも、筆を置いて耳を傾けた。
「…この町は夕暮れになると本当にきれいです。海に映る光が、まるで時間まで溶け込んでいくみたいで」
「良いですね」
ふと、颯太は先ほど買ったパンを袋から取り出した。
女の子の表情が少し和らいだ。
「…あ、あそこのパンは美味しいですよ」
颯太は柔らかい声で返す。
「よく利用されるんですか?」
「利用しているというか、住んでます」
「あ、そうなんだ!」
女の子は頷いたが、少し考え込むように目を伏せた。
「私がこの世界に来た時からずっと住まわせてくれてて…。でも、まだ店主さんとあんまり仲良くなれてなくて」
「へえ…」
「とても優しい人なんですけど…生前のことを、ほとんど話してくれなくて。何か大切な未練があるみたいで」
女の子は颯太の方を向いて見つめた。
「夢遷記録局で働いている方なんですよね?」
「あ、えと、はい!」
「パン屋の店主さんの未練を無くすお手伝い、してくれませんか?」
「…え!?」
「えっと、お手伝いというか、どうすれば未練を無くせるのか知りたいです」
「俺でよければ協力させてください!その方の未練を責任をもって探します」
「あ、でも」
「それが、俺の仕事なんです。それに、あなたのことももっと知りたい」
女の子は少し驚きながらも、ほっとしたように頷いた。
「…うん、分かりました」
「ところで、名前聞いてもいい?」
「私、自分の名前も分かってないんだけど、パン屋の方…、香織さんがつけてくれた名前があるの」
「うん」
「篠原天音」
「…とっても似合う名前だね」
「ありがとう」
その笑顔を胸に刻みながら、颯太は小さく頷いた。




