1.
今日も、いつもと変わらない、なんでもない一日。
このなんでもない一日が、忘れられない一日になるまで。
ただ、生きていた。
「ん…」
ゆっくりと目を開けると、自分が草原で静かに横たわっていることに気づいた。
カーテンを一気に開け放った時のように、日の光が視界に広がり、思わずまばたきをする。
どこまでも続く淡い緑色の絨毯。
さらさらと揺れる草に、立ち上がろうとする気力を吸い取られる。
春の終わりを思わせる穏やかな風が頬を撫で、柔らかな陽射しが空と大地をやさしく包み込んでいた。
「…ここ、なんだ」
声に出した自分の声が、少しだけ遠く感じた。
寝起きのようなぼんやりした頭。
まだ、この状況を理解するには情報が足りなかった。
体を起こし、軽く体を伸ばすと、少しずつ意識が冴えていく。
雲、日光、風、すべてが爽やかで、思わずため息がもれた。
「あれ、ここ、どこだ…俺、今まで何やってたっけ」
ゆっくりと立ち上がって遠くを見渡すと、ビル群が静かにそびえているのが見えた。
道路や横断歩道、普通の街並みがそこには広がっていた。
ここは大草原などではなく、ただの公園だった。
自分はその片隅で寝転んでいただけだったのだ。
「あ…!」
声の方を見ると、ベンチに座った老人が風に飛ばされる紙へ手を伸ばしていた。
風が止んだ隙に駆け寄り、紙をさっと拾い上げる。
ちらりと見ると、それは広告のようなチラシだった。
「ああ、ありがとう」
老人はにこやかに笑みを浮かべる。
「あの…すみません。ここは一体どこですか?」
「ん?…君、さては、ついさっき目を覚ましたのかい?」
老人はまるで全てを知っているかのように、余裕のある表情を浮かべていた。
「そ、そうです。気づいたらそこで寝ていて」
「そうかい…。お名前は?」
「桜井颯太と言います。おじいさんは?あなたは一体…?」
「山崎重雄。名ばかりの、ただのじじいさ」
そう言って山崎は隣のベンチをぽんぽんと叩き、颯太を招いた。
「まあまあ、とりあえずじいさんの話でも聞かないか」
促されるまま、颯太は山崎の隣に腰を下ろした。
「わしには2人の息子がいてな、まあ、揃いも揃って手のかかる子どもでな。小学生の頃は泥だらけで帰ってきて、中学では赤点ばかり、高校では見事に反抗期。長男も次男もおてんばで、何度叱っても懲りない。ほんと、にぎやかな奴らだった」
「はあ…」
「そんな長男が突然結婚すると言い出してな、たしか息子が20の時だったか。大学に行かせてやったのに、家のことも相手のことも考えず突っ走る。そんなやつはいらんと、わしは突き放した」
山崎はどこか寂しげに笑った。
「妻はその後も連絡を取っていたようだが、わしはとうとう、あいつの子どもに会うこともなかった」
「とうとう…?」
颯太がつぶやいた声は届かなかったのか、山崎はため息をつき、再び颯太を見た。
「そうだ。もし、お前さんが良ければの話なんだが…」
「あれ、山崎さん!今日は先客がいらっしゃるんですね」
声のした方へ目を向けると、1人の男性がこちらへ歩いてきていた。
紺のジャケットを羽織り、茶色の髪をラフに流している。
ホイップがかかったカラフルなドリンクを飲みながら歩く姿は、昼休みを満喫する今どきの高校生のようだった。
「この子は、ついさっきこの世界にやってきた子なんだとよ。じじいの暇つぶしに付き合ってもらってたとこだ」
老人の言葉に、男は颯太の方へ目をやり、やわらかく微笑んだ。
「そうなんですね。初めまして、三浦透と言います。よろしくね」
「あ、桜井颯太です」
三浦はベンチの脇の草の上に腰を下ろし、ドリンクをちびちびと飲む。
「そっか、こんなところでお客さんに会うとは」
「お客さん…?」
「俺はね、この辺りの住人の情報を管理する仕事をしてるんだ。突然で悪いけど、これ飲み終わったら俺の職場についてきてくれるかな?」
「え、あ、はい…」
状況がまるで掴めず、颯太はただ頷くしかなかった。
空は、青と水色の中間のような淡い色。
真っ白な雲が少しだけ漂い、当分雨は降らなさそうに見えた。
きっと、この世界は現世とは少し違う。
山崎や三浦の様子を見て、颯太はそう感じていた。
今まで生きてきた世界なら、空の向こうには宇宙があるはず。
けれど、この空の先には、一体何が広がっているのだろう。
そんなことをぼんやり考えていると、三浦の手が視界に映った。
「んん…」
気持ちよさそうに伸びをした後、髪や服を整えて颯太の方を向く。
「颯太君、だよね?そろそろぼんやりするのも飽きたし、いこっか。山崎さん、また」
舗装された道を歩くと、人々がごく自然に暮らしている。
夢にしては、あまりにも鮮やかで現実的すぎた。
三浦の後ろをついていくと、やがて町の中心に白くそびえる建物が見えてきた。
ひときわ高いその施設の看板には、こう書かれていた。
『夢遷記録局』
「ここ、俺の職場。おいで」
その言葉に導かれるように、颯太は建物の中に入る。
カラン、と小さな鈴の音が鳴る。
中は、無機質な書類の匂いと、優しい木の香りが混ざっていた。
床は静かに磨かれていて、職員らしき人が静かに出入りしている。
三浦は部屋の奥の小さなソファスペースを指さした。
「あそこ、ちょうど空いてるからあそこにしようか」
2人はソファに腰を下ろした。
柔らかく沈む座面に、颯太の体から少しずつ力が抜けていく。
「改めて、俺はこの『夢遷記録局』という場所で職員をしている、三浦透という者です。職員とはいっても、ボランティアみたいなものだけど」
「はあ…」
「突然だけど、ここはいわゆる死後の世界。君がここにいるってことは、現世で亡くなったってこと」
三浦の顔が一転して真剣になる。
「そう、なんですね」
「…意外と、驚いてないように見えるけど?」
「さっき、山崎さんの話を聞いていた時に、なんとなく、そんな気がして」
とうとうあいつの子どもにさえ会うことはない。
山崎さんはもう、二度と息子さんに会うことはできない。
その現実を自分で受け入れている。
「そっか」
「そうなんだ、俺、死んだんだ…でも、全然記憶がなくて…」
「問題はそこなんだ」
三浦は大きくうなずいた。
「人は死ぬと、この世界に来たとき、大切な記憶をすべて失ってしまう。忘れたくない、まだ生きていたいという思いが、記憶を奥底に隠しちゃうんだ。だから君も、自分が何者で、なぜ亡くなったのか思い出せない」
「…」
「じゃあこれからどうすればいいのかって話なんだけど、これからの選択肢は2つ。ひとつは記憶を取り戻して、転生の手続きをする。もうひとつは、この世界で永遠に生きる」
「転生…」
三浦は手元の資料を広げながら続けた。
「この施設は、魂の管理や次の人生、いわゆる転生の手続きをしている。新しい命として生まれ変わる手続きだ。でも、その手続きを行う際に、自分の名前や死因、人間関係といった情報が必要になる。だから、転生をするには記憶を取り戻さなければいけない」
「記憶を取り戻すことって可能なんですか?」
「自分の人生を思い出す『記憶の象徴』を見つけるんだ」
「記憶の、象徴…?」
「ある人はサッカーボールを見て、自分がサッカー選手だったことを思い出し、ある人は、ベッドに寝転んだ時に、自分が病気で寝たきりだったことを思い出した。そういう、自分の人生を呼び覚ますトリガーがこの世界のどこかにあるんだ」
「でも、それが何なのかは自力では思い出せないんですよね?」
「そうなんだ。困った話だよな」
颯太はふと、山崎のことを思い出した。
「ということは、山崎さんはもう象徴を見つけたってことですか」
「そうそう。工場で働いてた記憶を、工具に触れたときに思い出したらしい」
「へえ…」
「転生は義務じゃない。記憶を取り戻しても、自分の人生を胸に抱いたままこの世界に留まる人もいる。ただ、正直おすすめはしないな。ここは変わり映えのない場所だから」
「はい」
「ということで、君のことも聞かせてほしい。今君が覚えているのは、自分の名前だけ?」
「俺は、そうですね。自分の名前しか、思い出せません」
忘れたくない記憶、忘れられない思い出。
思い出そうとするたびに、心臓が強く脈打つ。
頭の中は空っぽで、固有名詞は一つも浮かばない。
これは初めての感覚なのか。
それとも、忘れているだけなのか。
「よかったら、君の『記憶の象徴』を探すのを手伝わせてくれないかな」
「…良いんですか?」
「ここで出会えたのも何かの縁だしね。そうだな、まずは…」
少し考えた後、三浦は立ち上がり、軽く手を差し伸べた。
「まだお昼ご飯食べてないでしょ。一緒にご飯食べに行こう?」
自分が死んだ、という事実をまだ受け止めきれないまま、再び三浦の後をついて行った。
外に出ると、やわらかな光に包まれる。
何も知らない世界。
不安と期待が入り混じる中、三浦が颯太の顔を見て明るく笑ってくれた。
別れもあれば、出会いもある。
颯太は小さく微笑み返し、歩き出した。




