第零歩
二〇一八年 十月
俺は警察学校の門をくぐった。制服はまだ少し大きく、肩幅に合わない感じが笑えてしまう。それにしても、警察学校へはいとも簡単に入学することができた。意外とここは入学よりも卒業が難しい学校なのだろうか。剣道自体、服飾学院に入ってからあまり触れていなかったが、再開してみると意外と身体が覚えていることに驚いた。あれだけ服飾にこだわっていた俺が、まさか制服の着こなしを気にする日が来るとは思わなかった。
「まぁ、しばらくしたら慣れるだろ」
と自分に言い聞かせ、初日の点呼に向かう。訓練は予想以上にハードだった。朝五時起床、ランニング、基礎体力訓練、射撃訓練、法律の講義。十ヶ月でここを卒業しなければいけないからなのか、順番なんてあってないようなものだ。
「俺ら軍人にでもなるのかな。全身バキバキ。」
そう言うと同期はあきれた顔をする。それもそうだ、周りは俺と違って警察を目指し続けてきた人たちだ。基礎体力が違う。
しかし剣道経験はかなり活きた。柔軟な反応、瞬時の判断、集中力。体力では勝てなくても、技術と反射神経には自信があった。教官にも
「お前、体力はそこそこだけど読みと行動力だけは一丁前だな。」
と、バインダー片手にゼファ教官が褒めてくれた。シャツの上からでも分るほどの屈強な肉体は、年齢と反比例しているようだ。
「行動力なかったら服飾学生のまま野垂れ死んでます。」
この人との会話はあまり気が乗らない。たいそうな理由はない、シンプルに怖いのだ。この国内最大級の警察学校において最も恐れられているのがゼファ教官だろう。生徒からは勿論、教官方からもそうだと思う。これは噂程度の話だが、どうやら元は捜査一課で難解事件を次々と解決していたらしい。しかし、なぜか急に警察学校教官と、交番の巡回業務にシフトチェンジしたと言うが、一体なぜなのかは誰も知らないし、知ろうとする人も居ない。
肉体も頭も疲労しきってしまうこの生活が始まって数日が経った頃、俺は毎日ノートに警察組織について、そしてミアを探す手がかりを記すことにした。しかし警察学校の教官がそのことまで知っている線は正直薄いと思っている。しかし、このような思考がBOXの闇をより一層深くしているかもしれない。明日の実技演習で少し仕掛けてみよう。
二〇一八年 一月某日
今日は午前に基礎体力訓練、午後は前半に実技演習をして、最後に講義を受ける。この学校の序列は上から学校長、教頭、各担当教官、各担当教官助手だ。これは勘だが、上が知らずに下の人間のみ知っているという構図はないと思った。それと調査がバレるリスクを鑑みて、序列の低い教官から調べることにした。
「ケイ助手、落とし物が。」
昼休憩の前に廊下で呼び止めた。もちろん落とし物は俺が用意したものだ。“LAMINA縫製工場”そして“人員削減”という文字だけが見えるように自作のチラシを作り束ねたものだ。
「なんだ、落とし物か?チラシくらいなら捨てても良いと思うが。事務局に届けても良いし、判断は優秀な君に任せるよ。」
瞳孔の変化はなし。呼吸の乱れ、視線の揺らぎはない。言葉使いもいつも通りだ。
「分かりました。事務に行って判断仰いでみます。」
そう言うとケイ助手は「飯食わないと午後の演習へたばるぞ」と言いながら教官室へと入っていった。
おそらく、いや、ほぼ確実に助手レベルの教官はこのことを知らない。次は各担当教諭、俺たちが教官と呼ぶ人たちだ。人によっては理不尽に怒鳴り続けている方も居る。ターゲットは慎重に選ばなければいけない。
「廊下の真ん中で立ち往生するな。取り調べは道の端で、だろ?イウス・リトくん。」
不意な問いかけに呼吸の仕方を一瞬忘れた。気配を感じなかった。
「ゼファ、教官。」
まずい、よりにもよって校内一の鬼教官で、教官のトップに今声をかけられるとは。本当の落とし物は俺の運勢だったのかもな。
「少々今日の昼食に迷ってまして。」
過去一番質の悪い誤魔化しだ。しかし教官は「そうか、腹は満たせ。」とだけ言い残してあとにした。
ひとまず自室に戻りメモを取ろうと思った。しかし道中、なぜか事務局に目が行った。ケイ助手の言葉が蘇る。
「すみません、第二部隊イウス・リトです。落とし物があって。」
そう呼びかけると事務局員さんが取り合ってくれた。しかし、こんなチラシ、普通なら処分して終わりだ。腹減ったな、何食べよう。
「あ、これは、こちらで預かりますね。」
帰路に向けた足先を巻き戻した。瞳孔の拡張、一瞬止まる呼吸と乱れる視線。黒だ。まさか、教官ではなく事務が。いや、まだ情報は出るかもしれない。しかし用もなく居ては不審に思われる。
「あそうだ、別件なんですけど、生徒証明書なくしちゃって…」
このやりとりは確か待ち時間が長い。阿呆な友人の付き添いで散々待たされた経験が吉と出た。先の事務局員はどこかへ内線をかけている。遠くて聞き取れない。あまり得意ではないが、口を読むしかない。
「チラシ…LA…MI…NA……ゼ…ファ。」
ゼファ教官?どうして。いや、落ち着け、細工は完璧だ。調査しているとは思わないはずだ。落とし物も校舎前に落ちていたと届けた。何より、あのチラシは全体の文章を見ればなんの変哲もないただの求人票だ。
事務局員がそのことに気がついたのか、砕けたように笑い、軽い会釈の後内線を切った。
「あ、すみません、友達が講義室に落ちているのを見つけてくれたみたいです。」
できるだけ自然にその場を去った。十分な収穫だ。ひとまず今日は状況を整理した後、証拠を早急に消そう。
入学して半年、苦手だった射撃は的の中心に安定して当てられるようになり、逮捕術も以前よりスムーズになった。
そうして風が心地よい暖かさになってきた頃、最初の現場実習が始まった。都内の交番や生活安全課での見習いだ。初めて犯罪現場の現実を見たときは、心臓が跳ねた。交通事故の現場、窃盗の通報、失踪者の捜索…。初めて見た街角の貼り紙、そこに「行方不明者を探しています」と書かれたものを、先輩が黙って回収している姿を目にしたとき、胸に熱いものが込み上げた。その目線に気がついたように先輩がこちらを見た。
「新人、行方不明者の年間総数は知っているか?」
「ええ、学校では約十万人弱だと。」
とんでもない数だ。しかし、身の回りでの失踪・行方不明はミアだけだ。それまで実感がなかった。
「今お前、その数にしては身の回りでの行方不明事件なんて起きてない、そう思っただろ。」
瞳に入る光量が増えた。
「良いこと教えてやる、交番の先輩からのお言葉だ。行方不明者数はいわば通報の数だ。しかしその九割以上は子供が一時的に親元を離れただけで、数分後には見つかったという連絡が来る。だから巡回中はこういうのがあったら剥がすように言われている。」
腑に落ちてしまいそうな説明だ。しかし、残りの一割も見捨てていることに気がつかないのか?ミアもそうやって見捨てられたっていうのか。そんなこと、許せない。
「そうなんですね!俺も見つけ次第剥がしておきます!」
バレてはいけない。この思いは、バレたら全てが水の泡になって、ミアと会えなくなってしまう。
現場で学ぶことは多かった。報告書の書き方、市民の方達からの聞き取り方法、現場保存の手順。すべてのことが、俺の「デザインの構想」と似ている。違うのは、人の命や生活を相手にしている点だ。小さな違和感に気付く目、思い込みを排除する判断力、そして冷静に行動する勇気。
そうして、夏の警察学校卒業試験が近づいた。体力、射撃、逮捕術、法律知識の総合試験だ。そして、難なく全科目合格。これで俺は正式に警察官となった。
交番勤務の先輩から「お前、笑いながらも動きは正確だな」と言われたとき、ちょっとだけ誇らしかった。一年が過ぎ、現場経験を積む中で、俺は特に密輸組織や行方不明事件の担当に回されることが多くなった。先輩刑事に教わりながら、聞き込みの重要性を肌で覚える。何より、ミアを探すという個人的な想いが、仕事への集中力を支えていた。ある日、先輩刑事に呼ばれた。
「リト、ちょっと来い。」
「はは、また恐怖の説教ですか?」
そういうと目尻を柔らかく曲げ、手招きされた。
「いや、今回は違う。お前の動きが目立つ。ちょっと捜査一課で経験を積んでみないかと本部から通達があった。」
捜査一課は、街で起きるさまざまな事件を扱う部隊だ。未解決事件、失踪者の捜索、組織犯罪の調査。体力と頭脳、観察力と行動力が必要になる。現場経験を積んだ君なら、戦力になる、という先輩からの推薦だったらしい。俺は心の口角が上がった。
ノートを取り出し、新しいページを開く。ここからが、本当の勝負だ。これまでの訓練、貼り紙回収の現場での経験、失踪者を見つけたいという純粋な願い、すべてを書き込む。「俺は必ず、見つける。」文字にすることで、決意が形を持った。ノートのページに、今日の自分の覚悟を書き込む。それは、未来のイウス・リトに向けたメッセージでもある。数週間後、正式に捜査一課への異動が決定した。制服の胸には名札、腰には手帳と無線。冗談を言える余裕はまだあるが、心は誰よりも背筋が伸びていだ。街に貼られた「行方不明者を探しています」の貼り紙を思い浮かべる。世の中には報道されない悲劇がある。俺は、それを無視しないためにここにいる。一割でも、一パーセントでも、たった一人でも、俺は見捨てない。
夜、独りで駅前を歩きながら、ノートを開く。警察学校で学んだこと、現場で感じたこと、そして今の決意を丁寧に書き込む。街灯の下で文字を綴る手は、少し震えていたかもしれない。だが、いまはその震えが心地良い。
捜査一課での初日。先輩刑事に「お前、調子に乗るなよ」と言われた。
「この方が無駄な警戒心生ませないんで何かと好都合なんですよ。」
だが心の奥底では、笑ってなどいない。イウス・リト捜査一課への抜擢。ここからが、本当の戦いの始まりだ。




