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第六話

   6


 赤目のヌシに連れられてどれほど歩いただろう。凛子たちが案内されたのはミ村よりさらに南の渓谷地帯だった。紅葉を脱ぎかけた山に挟まれる川沿いを進むと、やがて小さな村落の跡地にたどりついた。


 地図上では、ここにはかつてメ村が存在していたとされている。渓谷の底で孤立していたメ村はその地理的要因から獣との前線拠点としての役割を果たせず、加えて汚染された川の瘴気の影響で開花する人間があとを絶たなかった。その結果、獣の襲撃を受けるよりも先に内部から崩壊していった歴史を持つ。


 そこかしこに眠る獣たちのあいだを縫って奥の屋敷跡に向かうと、黄色目のヌシが前足のうえに顔をのせて横たわっていた。おそらく直毘の妹だろう。彼女はゆっくり起きあがると、二人をじっと見つめた。案内役の赤目のヌシたちはいつの間にかどこかへ消えていた。


「おれたちをここに呼んだのはおまえか」


 直毘の質問にヌシは短く唸ると、屋敷の外周を歩きだした。どうやら、またついて来いということらしい。ヌシが向かった先は屋敷の裏手にある庭園だった。かつてはきれいに手入れされ、色とりどりの花が咲き誇っていたのだろうが、いまや人の手を離れて久しく、野生の草木が伸び放題だった。


 中央には大きな木が植わっていて、根元に子どもの獣が二匹、抱きあって眠っていた。白い毛並みがヌシにそっくりで、腹部には薄紅色の蕾がかたく結ばれている。


 ヌシに顔を舐められて目を覚ました二匹はつかのまじゃれあうと、ヌシの足元に擦り寄って甘えるような声を出した。


「もしかして、あなたの子どもなの?」


 ヌシは鼻で二匹を凛子たちのほうへと押しやった。体格が少し大きいのが雄で、もう一匹が雌だ。凛子が雌の子どもを抱きかかえると足をばたばたさせて下りようとしたが、やがて居心地がよくなったのかおとなしくなる。


「獣も子どもを産むのか?」


 直毘は不器用な手つきで雄の子どもをあやしていた。子どもはふしぎと直毘のことを気に入ったようで、身を乗り出して頬を舐めようとする。


「獣に生殖能力があることはわりとむかしから知られている事実よ。世間一般にはあまり広まっていないけど」


 二人は子どもをヌシの足元に放した。赤目のヌシが背後からやってきて、黄色目のヌシにぴったりと寄り添った。黄色目のヌシ、直毘の妹は赤目のヌシに寄りかかって心地よさそうに鳴いた。


「こいつはおまえたちの子どもなのか。おれに見せるために案内してくれたんだな」


 もはや獣となった妹は、その問いに答える言葉を持たない。しかし、代わりに鼻先を直毘の胸に押しつけてなにかを伝えようとしていた。直毘は妹の大きな顔を長いこと抱きしめつづけた。兄妹にしか理解しえない無言のやりとりがあった。凛子もまた、彼女のからだにそっと触れてみる。腹部に咲いた花の優しい香りが、マスク越しにも伝わってきた。


 やがて空が曇り、寒さが増したかと思うと、粉雪が舞いはじめた。少し早すぎる降雪は木々にしがみつく葉の鮮やかさをいっそう際立たせ、また雲の隙間から漏れる夕日を反射して眩しかった。赤目のヌシが天に向かって吠え、仲間の獣たちがぞろぞろと集まってくる。獣たちのなかには定期的に大移動を行う群れが存在する。きっと彼らも新たな餌場を求めて長い長い旅に出るのだろう。


 凛子たちは屋敷のバルコニーに上がり、長い列をなして川沿いを南下する群れを見送った。満開の花が連なって流れゆく光景は、獣たちが命を燃やして生きている証しだ。途中で黄色目のヌシが何度かこちらを振り向いて、そのたびに直毘は両手を大きく振り妹の名前を呼んだ。


「ずっと、獣は敵だと教えられてきたんだ」


 直毘は夕暮れに映える花を見ながら呟いた。いつの間にか雪はやみ、雲が晴れていた。獣たちの旅路を祝福するかのように。


「おれも獣を殺しつづけて、いつか親父みたいに殺されるんだと思っていた。狩人にも獣にも、そういう生きかたしかできないんだと。そんなとき、妹がヌシになってしまった。でも、今日出会った妹は、なんというか、村にいるときよりも幸せそうだったな……」

「もしかしたら、そのことを伝えたくて、自分の子どもをあなたに会わせたのかも」


 直毘は首にさげた石を夕日にすかして眺めている。妹と同じ月の色の瞳が宝石の光を吸ってきらめいた。


「人間は獣を駆逐する方法や、人間に戻す方法ばかりを考えている。確かにそれは大事だと思うけど、実際に森へ出てみてわかった。獣たちはもはや、生態系の一部として自然のなかに組みこまれている。獣を人間に戻すだけではなくて、共生する方法もまた探していくべきなのかもしれない」


 凛子は一枚の紙を直毘に渡した。


「これは?」

「調査同行申請書。それを提出すれば、あなたは花研の臨時職員として働ける。あの村に縛られず、森を自由に動けるの。私の調査に同行する限りにおいてではあるけどね。私が記入する部分はもう埋めてある」


 直毘と自然に目が合う。出会ったころは輝きを失っていた彼の目が、いまは違う色彩を帯びていた。


 凛子はその目が好きだ。好きなのだと、いま気づいた。


「私はもっと森のこと、獣のことを知りたい。よかったら、あなたも一緒に来ない?」


 凛子は上にかけあって、森のさらに奥深くを調査する許可をもらうつもりだった。そのためには、森を熟知した協力者が必要になる。そこで直毘を同行者に選んだのだった。だが、彼女が直毘を誘った本当の理由はほかにあった。村に縛られ、虐げらている直毘を自由にしてあげたかった。妹に別の生きかたがあったように、彼にだっていまとは別の人生があったっていいはずだ。


「おれは……」


 書きかけの申請書を眺めて考えこんだすえに、直毘は口を開いた。

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