第五話
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ドアをノックする音にたたきおこされた直毘が玄関に向かうと、大きなスーツケースを携えた凛子の姿があった。
「今日からここに寝泊まりするから」
「ここに泊まるって、村の宿は?」
凛子はずかずかとなかに入ってくると、ソファに腰を下ろした。
「あの村には戻りたくない」
そう告げる彼女の目元が真っ赤になっていることに直毘は気づいた。
「村のやつらとなにかあったんだな」
「調査から戻るとき、村長さんたちが立ち話をしているのに出くわしたの。そうしたら、あなたや妹さんを悪くいうのを聞いてしまって……」
「それで、言い争いになったのか」
凛子は質問に答えず、頬を少し膨らませて下を向いた。
「あんがい不器用な性格なんだな」
直毘はスーツケースを持ち上げると、かつて妹が使っていた部屋へと運んだ。妹の私物がいくらか残っているが、客間としては使えるだろう。
「いいの?」
凛子は申し訳なさそうに訊ねた。
「もとはといえば、おれたち兄妹のために怒ってくれたわけだからな。こんなボロ小屋でいいなら気がすむまで使ってくれ」
こうして二人の共同生活が始まった。同じ時間に起き、一緒に調査に出かけ、ともに食事をとる。文字どおり朝から晩まで生活をともにすることとなったのだ。凛子という同居人の存在は、十年以上も孤独に生きてきた直毘の人生に思いがけない彩りを与えてくれた。かつて父や妹がいたころに感じていた日々の暮らしの暖かさ。もはや永遠に戻ってこないと思われていたそれがふいに目のまえにあらわれたのだ。森は木枯らしによって徐々に衰退していったが、直毘の目には以前にも増して彩り鮮やかにうつった。
まるで世界が生まれ変わっていくようだった。
「そういえば、どうして研究員になったんだ?」
その日、直毘はふと気になって凛子に訊いてみた。午前の調査を終え、少し遅めの昼食をとっていたときのことである。倒れた木の幹に座り、おにぎりと昨日の夕飯の残りを詰めた弁当箱を広げながら、凛子は少し言いにくそうな表情を浮かべた。
「実は、最初は安定した仕事に就きたいって思いがあったの。国立の研究所は終身雇用だし、給料もいいしね。でも、いざ入ってみると、そこには本気で開花現象を解き明かそうとしている人たちがいて、いつの間にか私もその一人になってた。嘘じゃないわよ」
「わかってる。生半可な気持ちじゃ、森での調査なんてできないもんな」
生まれたときから狩人としての道を定められていた直毘にとって、森の危険はほとんど生活の一部のようなものだった。だが、凛子は違う。獣と無縁の場所で生まれ、無縁のまま生きられたにもかかわらず、こうして森へやってきた。強い覚悟と行動力がなければできないことだ。
「でもね、都市は地方の人が思うような理想郷じゃないのよ」
「そうなのか?」
「安全な生活を求めて、毎年多くの人たちが都市へ流入してくるけど、土地や物資が圧倒的に足りないの。もちろん、獣の脅威がないという意味では平和よ。でも、その裏ではピリピリした空気がいつも張り詰めていて、犯罪や住民どうしのトラブルは増えるいっぽうなんだ。森にはそういう息苦しさがないでしょ。その点では都市よりも気が楽かも」
凛子が遠く枯れ始めた木々を見やる。直毘も同じ方角に視線を動かしつつ、茶でおにぎりを胃に流しこんだ。
午後はいつもより遠くまで進んで、旧ミ村跡地の周辺を調査する予定だった。獣の襲来の際、大規模な火災が起きて焼け落ちてしまったマ村とは異なり、ミ村は建物や設備がそのまま残されているという。おそらくは獣たちの縄張りになっているだろう。慎重に行動する必要があった。
「さすがに草木に覆われてるな」
錆びついたキュービクルに巻きつく蔦を直毘は引きちぎる。覗き窓の奥にミ村の文字があった。ここが目当ての場所で間違いないようだ。
「建物のなかは雨風がしのげるから、獣たちが隠れている可能性が高い。用心して進みましょう」
二人は猟銃を手に村のなかを探索した。かつて大通りであった場所にはまあたらしい糞が落ちており、獣が最近ここを訪れたことがわかる。
実は直毘もこのあたりまで足を運んだのは初めてだった。目測だが、村の規模はホ村とほぼ同じかやや小さいくらい。木造の建物はほとんど朽ちて倒壊してしまったようだが、役場と思われる鉄筋コンクリート造りの建物が中央に残っていた。
「なかに入ってみるか?」
「いえ、獣たちをいたずらに刺激しかねない。やめておきましょう」
そういって、凛子が踵を返そうとしたそのときだった。
大きな咆哮とともに、数匹の獣が役場跡から飛び出してきた。
しまった、と直毘が思ったときにはすでに手遅れだった。獣たちは二人を素早く取り囲み、低い姿勢で牙を見せつけながらにじり寄ってくる。完全に逃げ道を塞がれてしまった。獣のからだに咲く花の香りに混じって、死のにおいが鼻をついた。
銃で威嚇するか。いや、そんなことをすればかえって相手を刺激するだけだ。そもそも、この状態から逃げきれる方法などあるのか。冷や汗が首筋を伝う。
せめて凛子だけでも逃がさなければ。彼女は嫌がるだろうが、これしか方法はない。直毘が一匹に狙いを定めて突撃を決めこもうとしたとき、廃墟の陰から巨大な体躯が姿をあらわした。
あれは、ヌシか。こちらに近づいてくる細長い顔を直毘は観察する。体格はほぼ同じだ。しかし、妹の瞳が月の色であるのに対して、目の前の個体は赤い瞳だった。これは妹ではない。だとすると、別のヌシということか。
赤目のヌシは直毘に顔を近づけ、品定めをするようにしばらく観察する。まるで命を値踏みされているかのような緊張感が直毘の全身を貫いた。やがて、赤目のヌシは短く鳴くと後ろを振り向いて歩きだした。二人を囲んでいた獣たちも、黙ってそれに続く。
「助かったの、私たち?」
「わからない」
すると、遠くで獣たちが立ち止まり、こちらを振り向いた。
「もしかして、ついてこいって言いたいんじゃないかしら」
「だが、大丈夫なのか」
少なくともあのヌシは妹ではない。むろん、妹だからといって確実に安全なわけではないが、あの赤目がなにを考えているのか読めないのが不気味だった。
「でも、私たちを呼んでいるってことは、なにか意味があるはずよ。行ってみましょう」
「わかった。だが、少しでも危険だと判断したら引き返す。それでいいな」
二人はおそるおそる歩きだす。獣たちは二人がついてきたことを確認すると、ふたたび背を向けた。