第四話
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超大型個体については日本だけではなく世界各地で報告例があがっている。この地ではヌシと呼んでいるらしいが、場所によって呼び名はさまざまで、花研では『超大型個体』という味気ない呼称に統一されている。
歴史上、最初にヌシが確認されたのは中国の福建省である。とある村の若者がとつぜん苦しみはじめ、その後に開花。巨大な獣に変化し、またたくまに村人の半数以上を食い殺した。世界で開花現象が起こりはじめてから約三年後のことであった。
その事例を皮切りに、世界各地でヌシがあらわれるようになる。数は決して多くないが、極めてまれというほどでもない。そこそこといったところだろう。それゆえに個々の事例の共通項が見えづらく、ヌシの発生原因については未だ多くの謎が残されている。
ひとつたしかなのは、ヌシがいる地域ほど獣たちの統率がとれているということだ。ヌシはからだが大きく知能も高いため、群れのリーダーとして君臨するケースが多い。優秀なリーダーがいる群れは強敵だ。それぞれの個体に明確な役割が与えられ、規則的かつ効率的に狩りが行われる。ヌシが率いる群れの近くで死人が増えるのはそのせいである。
「コーヒーでいいか?」
飲みものの希望を訊いてくる直毘に、凛子は「ええ」とだけ答えた。
ヌシからなんとか逃れた二人は巡回を早めに切りあげて小屋へ戻った。ヌシの周辺にはたいてい仲間の個体が潜んでいるから深追いは危険だし、そうでなくてもあんな話を聞かされたあとでは追跡する気も起こらなかった。
ヌシは、おれの妹なんだ。
マスク越しのくぐもった声が耳の奥で繰り返し再生される。あのとき、凛子はなにも言葉を返すことができなかった。そしていまも返せないままでいる。
「だいぶ片づいたのね」
凛子はやはり昼間のことを切りだせず、どうでもいい話題を振った。自分の意気地のなさが憎らしくてしかたなかった。
「まえにきたときは足の踏み場もなかったもの」
「悪かったな」
二人ぶんのコーヒーと夕飯を盆にのせて直毘がキッチンから戻ってくる。具材たっぷりのビーフシチューが凛子のまえに置かれた。ブロック肉がゴロゴロと入ったシチューは見ているだけで食欲をそそられる逸品だが、それでも凛子の気分は浮かなかった。
「ほら、冷めないうちに食べよう」
直毘はシチューを吹いて冷ましてから口へ運ぶ。自分より十歳近く年上の男が子どものように口いっぱいに頬張る光景に、思わず笑みがこぼれる。彼はまるで獣のようだ。雨に濡れたからだをふるわせている手負いの獣。傷ついているから他人を寄せつけず、しかしながら、傷ついているからこそ他人の痛みを深く理解している。
凛子は座学でフィールドワークのやりかたを完璧に学んだつもりでいたが、実際に森へ出てみると戸惑いの連続だった。うまくいくといわれた方法が通用しなかったり、起こらないと教えられたことがいきなり起こったり、とにかく森での生活は想定外の連続なのだ。おまけに獣にいつ襲われるかもわからない緊張感で、凛子は常に気を張っていた。
直毘はそんな彼女をよく気遣ってくれた。今日だって彼が荷物を持とうといってくれたとき、凛子は自分の大事な商売道具だからと断ったが、あの言葉だけでもどれほど気が楽になったことか。それに直毘の狩人としての実践的な知識はフィールドワークに役立つことばかりだ。もしも彼がいてくれなかったら、凛子はいまの半分の成果も上がっていなかっただろう。
凛子は直毘に感謝していた。初めこそいがみあっていたかもしれないが、いまは互いに尊敬しあえる関係性を築けていると思っている。だからこそ妹のことが気になってしかたなく、また聞く勇気のない自分がふがいなかった。
直毘の助けになってやりたい。凛子は心の底から願っていた。
「そろそろ帰るのか」
食事を終えてしばらくたったころ、直毘が壁の時計を見ながらいった。凛子は昼間は直毘と行動をともにしているが、夜になると花研が押さえている村の宿に滞在していた。
「うん」
生返事をしながら凛子は椅子の背に深くもたれかかる。なんだか村に戻る気分になれなかった。
「少し歩かないか」
凛子の様子を見るに見かねたのか、直毘は上着を投げてよこした。
「見せたい場所があるんだ」
懐中電灯の光を頼りに連れていかれたのは、村の近くを流れる川だった。幅が広く、流れは緩やかで、寝息のようなせせらぎがかすかに聞こえてくる。
直毘は念のためといって持ってきた猟銃を杖がわりに岸辺に腰を下ろした。
「ここは?」
凛子は直毘の隣に座った。
「人間だった妹の姿を最後に見た場所だ」
しばらく上流のほうを見つめていた直毘は、ほら見てみろ、と指を差した。
「あれは……」
凛子が暗闇に目を凝らすと、ゆっくりと流れてくるいかだが見えた。中央にはランプが置かれ、それを挟むようにして父と子らしい二人組が背中合わせに座っている。手足を縛られ、身動きがとれない二人は小さないかだのうえで必死にもがいていた。
「助けなくちゃ」
立ち上がろうとする凛子の腕を直毘がつかんだ。
「無理だ。この川の水は汚染されている。入ればたちまち獣になるぞ」
「でも……」
「それに、あの二人はもう助からない」
直毘の声は重たく沈んだ。
「どういうこと?」
「彼らには開花の兆候があらわれたんだ。だから壁の内側で獣になるまえに森へ放たれた」
開花現象を止める方法はいまもなお見つかっておらず、開花の兆候があわられるということは、すなわち確実に獣になることを意味する。ゆえに前線の集落では兆候があらわれた人間を追いだすことがあると聞いたことがある。ああやって手足を縛っているのは、できるだけ遠くへ運ぶためだろう。間違っても村の近くで陸に上がり、獣となって戻ってくることのないように。
「親父が獣に食われて死んだとき、おれは自分が狩人になることを条件に妹を村で生活できるようにしてもらった。こんな生きかた、おれだけでじゅうぶんだ。妹には普通の暮らしをさせてやりたかった。だが、壁の内側での暮らしは妹にとって幸せなものではなかった。学校では狩人の家系というだけでいじめられ、周囲の大人からも無視された。妹を引き取ってくれた村長も、日常的につらく当たっていたらしい。でも、おれは村のなかで起こっていることをなにひとつ知らなかった。妹は幸せに暮らしているんだとばかり思っていたんだ」
猟銃を握りしめる手に力がこもる。凛子は闇のなかに直毘の横顔が鋭く浮かびあがるのを見た。
「手足を縛られ、いかだのうえでもがく妹の姿を見たとき、おれはようやく理解した。妹が村でどれほど苦しみ、絶望してきたか。だが、もうなにもかも手遅れだった」
開花は大気中の汚染物質を吸収することで発生するが、精神状態が不安定な人間ほど開花しやすいという研究結果が出ている。直毘の妹も、村人から日常的にいじめられていたことでストレスが溜まった結果、開花が誘発された可能性が高い。
「おれはいかだを追いかけながら妹の名前を呼んだ。妹もおれに気がつくと必死で助けを求めたが、しだいに様子がおかしくなった。声が出なくなり、苦しみだし、のたうちまわって、やがて川に転落した。しばらくして浮かびあがってきたのはおれの知っている妹ではなかった。巨大な銀色の獣。ヌシだった」
川下の方角にいかだの明かりが小さく見える。それを見つめる直毘の瞳が、秋の肌寒い夜風に輝いた。直毘はその目でいったいどれほどの人間が運ばれるのを見てきたのだろう。妹が開花する瞬間をどんな気持ちで見届けたのだろう。
凛子は首都で生まれ育ち、花研に所属しながらも開花現象そのものとは無縁の生活を送ってきた。心のどこかで、開花は遠いどこかで起こっていることであり、自分とは無関係なのだと思っていた。しかし、凛子の生活と地続きの場所で今日も誰かが開花し、狩人がそれを殺している。そういう悲しさやむなしさ、そして残酷さがこの森には確かに存在するのだ。
かける言葉が見つからず閉口する凛子に、直毘はネックレスを見せた。昼間は澄んだ空の色をしていた石はいま、夜気を吸って鈍い輝きを放っている。
「今日、こいつを見せたらヌシがおとなしくなっただろう。このネックレスは妹が村に移るときにおれがあげたものなんだ。あいつがヌシになったあと、岸に流れついていたのを拾ってお守りがわりにいつもぶら下げている」
「それって……」
凛子がいいかけると、直毘は石を両手で大事そうに包みながら微笑んだ。
「ヌシは、妹はまだ人間だったころのことをおぼえていると思う。おれはきみのことを信じるよ」