第三話
3
秋は森が最も賑やかな季節だ。木々は紅葉し、色づいた葉は乾いた風にくすぐられて笑い声を上げている。見渡すかぎりの木々がゆらめく光景は、まるで森全体が燃えているようでもあった。命という炎にさらされて、あっという間に広がっていく火の手。直毘の暗い気持ちも一緒に燃やしてくれればいいのに。そんな感傷を掻き立てられるほどに色鮮やかな午後だった。
背後には凛子がぴったりとくっついて歩いていた。猟銃を胸のまえに抱え、周囲を警戒しながら歩くすがたは直毘の新米時代を思い起こさせる。むかしは直毘もああやって父親の背中にくっついて歩いていた。心はいつも張りつめ、かすかな風の音を獣の息づかいと勘違いしては空白に銃口を向けた。余裕のなさを父に笑われもした。おまえは臆病すぎると。しかし同時に、少々臆病すぎるくらいが狩人にはちょうどいいともいわれた。
父は直毘に狩人としてのいろはを徹底的に叩きこみ、また直毘は叩きこまれた教えを徹底的に実践した。銃の扱いかた。森での動きかた。劣等感のなぐさめかた。父は大切なことをすべて教えてくれた。そのひとつひとつを忠実かつ正確になぞることを繰り返した結果、直毘は今日まで生きてこれたのだ。
獣に勝ちたければまず獣を知れ、という父の言葉は直毘の耳にいまでも強く残っている。夏の盛り、豪雨のために小屋まで戻れず、洞穴での野宿を余儀なくされた日のことだった。ひょんなことから昔語りが始まり、父はかつての狩人仲間との思い出を直毘に話して聞かせた。むかしは大山家以外にも狩人の家系があったという事実を直毘はそのとき初めて知った。
その仲間は父よりも狩りの腕が優れており、いつも父よりたくさんの、そして大きな獲物を狩った。誰もが彼の狩人としての才能を認め、獣にやられるとしたら父のほうだろうと予想していた。しかし、じっさいに長く生き残ったのは父のほうだった。手負いの獣を追い詰めるのに必死になりすぎた彼は、周囲に隠れている仲間に気づかなかった。のちに発見された彼の遺体はあらゆる肉をむさぼり食われ、右腕と左脚が欠けていたという。
あいつは獣を知ろうとしなかったのだと父は言った。人間の価値観や常識は獣に通用しない。人間に人間の世界があるように、獣には獣の世界がある。獣の目線や息づかいを知れば、自ずと獣の世界の全容が見えてくるだろう。そう語る父の横顔には三本線の傷痕が遺されていた。怪物と戦う者は、その過程で自らが怪物とならないよう気をつけよといった哲学者がいたらしいが、優秀な狩人は往々にして優秀な怪物の素質も有しているものだ。直毘の目がだんだん獣のそれに近づいているのも、単なる偶然というわけではない。
「ねえ、まえから思っていたんだけど」
凛子に背後から声をかけられる。
「森でマスクをしなくてもいいの?」
手首に巻いた汚染測定器は正常値を指しているにもかかわらず、凛子は律儀に防護マスクを被り続けている。おそらく花研ではそう教えられているのだろう。
「マスクを被るとどうしても視界が狭くなる。測定器が異常な数値を示さないかぎり、おれたち狩人はマスクを使わない」
凛子と一緒に森へ出るようになって二週間になるが、彼女が首都で学んできたという狩りの知識は狩人のそれとはずいぶん異なっていた。彼女たち花研の目的は戦闘ではなくあくまで調査である。ゆえに、その教えはリスクを可能な限り排除し、生きて帰還する可能性をいかに高めるかという点にのみ特化している。
いっぽう、狩人にとっての最優先事項は獣を仕留めることだ。もちろん生きて帰れるならそれに越したことはないが、獣を狩るためなら喜んで命を差し出す精神性のほうが重要とされる。第一にできるだけ多くの獣を仕留めること。狩人自身の命は二の次。直毘は父からそう教わってきたし、いまでもそう思って狩りを続けている。それに、村人だって狩人の命をなんとも思ってはいないのだ。もしも直毘が獲物を仕留め損ねて帰ってきたら、彼らはなぜ差し違えてでも殺さなかったのだと直毘をなじるだろう。狩人とはとことん報われない役回りだ。しかし、そこにしか居場所を見出せないような人間がこの世界には存在する。
村人とほとんど交流せず、孤独だけが友人だった直毘にとって、凛子との時間は新鮮だった。いや、正確には懐かしいといったほうがいい。彼は孤独でなかった時代のことを思いだしていた。父と二人で獣を追い立てたころ。そして、妹とまだ一緒に暮らしていた時期のことを。
「背中に持ってるそれ、重いだろう。よければ預かるが」
計測用の道具が入ったバックパックを重そうに背負っている凛子に、直毘はがらにもない親切心を見せてしまう。
「ありがとう。でも、ここに入ってるのは私の商売道具なの。だから他人には任せられない」
はっきりと断られて直毘は少し戸惑ったが、ふしぎと嫌な気持ちにはならなかった。それどころか、凛子の生真面目さとそこからくる強情さはかえって直毘の好感を呼んだ。もともと狩人の家系に生まれ育った直毘は、仕事に愛着を持ちこそすれ誇りに思うということはなかった。心のどこかでは狩人以外の道がなかったからなっているのだと感じていて、それを誤魔化すためにあえて身を危険にさらす無謀を何度もおかしてきた。
だが凛子は違う。彼女は自らの意思で研究員となり、プライドを持って仕事をしている。獣を観察しながら凛子はさまざまな知識を教えてくれたが、直毘にとっては驚きの連続だった。ほとんどの獣は肉食だが、なかには雑食の個体もいるという事実を直毘は知らなかった。獣の生態について嬉々として語る凛子のことを直毘は少し羨ましく思った。
凛子はこれまでに多くを学んできて、いまもより多くを学ぼうとしている。そして、得られた知識がいつか世界を変えうると信じてさえいるのだ。人類全体がジリ貧を強いられる現代において、彼女のように自らの使命を意識し、向上心を持って生きていける人間がどれくらいいるだろうか。最初に出会ったとき、直毘は彼女のことを座学でしか獣を知らない都会の娘なのではと疑っていたが、いまではひとかどの開花専門家として素直に尊敬している。
「今日はこのあたりを観測地に設定しようと思う」
そういって凛子は計測機器のセッティングを始めようとしたが、直毘はそれを制止した。口のまえに人差し指を立て、視線だけで凛子に違和感を伝える。
直毘は耳を澄ました。空気がやけに冷たく、静まりかえっている。おかしい。あまりに静かすぎる。視線をそっと上げると、木漏れ日がいつもより多く降り注いでいた。そうだ。鳥がいないのだ。
汚染測定器の針が一気に異常値に振りきれた。獣がいる。それも、大型の個体だ。直毘は急いで防護マスクを被り、風の吹いてくる方向を確かめる。木々の向こうに、巨大な黒い影がぬるりと動いた。
ヤツだ。
直毘が確信したまさにその瞬間、けたたましい咆哮が森に響いた。
「なんなの、いったい?」
凛子が上ずった声で訊いてくる。
「ヌシだ」
直毘は凛子の腕を掴んで走りだした。
「ヌシ?」
「突然変異で生じる超大型の個体だ。おれたち狩人はヌシと呼んでいる。ヌシは凶暴で、かつ知能も高い。見つかったら最後、確実に喰われるぞ」
「じゃあどうすればいいってのよ」
「見つかるまえに隠れるんだ」
いや、もう手遅れかもしれない。直毘は先ほどからなにかに見られている感覚に襲われている。ヌシはすでにこちらを捕捉しているに違いない。
「あそこに逃げましょう」
二人は近くの大木の陰に隠れた。姿勢を低くし、息を殺して小さな音すらも立てないようにする。背後から大きな足音がだんだんと近づいてくるのがわかる。あれはヌシの足音だろうか。それとも死そのものの足音だろうか。それほどまでに強大な恐怖が直毘の心を押し潰そうとしていた。
「おれがヤツの注意を引く。そのあいだに逃げろ」
せめて凛子だけは生きて帰さなければならない。直毘は覚悟を決めて猟銃を握りしめた。
「無理よ。あなたを置いて逃げるなんてできない」
「きみはここへ調査をしに来たんだろう。なら、なにがあっても生きて帰るんだ」
直後に低い唸り声が聞こえ、巨大な尾が背後からあらわれて二人のまえに横たわった。獣特有のすえた臭いとが鼻をつく。毛の量の多い尾が大木に巻きついて、二人の首筋をかすかに撫でた。
「来るぞ」
それは耳をつんざくような雄叫びとともに二人のまえにあらわれた。人間の身の丈の五倍はあろうかという巨大な体躯に銀色の体毛が逆立ち、血の色の花があちこちに開いている。満月の輝きをたたえる瞳は大きく見開かれ、傷口みたいにぱっくりとあいた口がいまにも二人を喰い殺そうと震えていた。
まさに死を具現化したような姿だった。
直毘はとっさに銃を構える。しかし、どうしても引き金をひけない。ヌシは血走った眼で二人を睨みつけながらゆっくりと近づいてきた。逃げろ、と背後の凛子に告げようとしたが、彼女は地べたにへたりこんだまま立ち上がれずにいた。
ヌシの口の端から、よだれがだらりと垂れた。まずい。このままでは二人とも喰われる。
どうする。
いったいどうすれば。
焦る直毘の脳裏に、凛子のしてくれた話がよぎる。
獣は人間だったころの記憶を留めているかもしれない。
直毘は首にかけていたネックレスを獣の眼前に突きだした。ぶらさがっているのは、空に似た色の石だった。それを見たとたん、ヌシはぴたりと動きを止める。見開かれた目が細められ、満月がかすかに欠けた。暴力的なリズムを刻みつづけていた息づかいも、しだいに落ち着きを取り戻していく。やがて直毘の首筋に食いこもうとしていた牙がゆっくりと離れたかと思うと、ヌシは一歩また一歩とあとずさりしてそのまま森の奥へと消えていった。直毘は自分の首を撫でてまだ繋がっていることを確かめると、大きく溜め息をついた。
「いったい、なにが起こったの」
まだ状況が掴めていない様子の凛子が訊ねる。
「そのネックレスはなに?」
「これは妹の形見だ」
薄青色の石が埋めこまれたネックレスは木漏れ日を反射してきらめいていた。
「それじゃあ、まさか」
「そのまさかだ」
直毘はネックレスをしまいながらいった。
「あいつは開花して獣になった。ヌシは、おれの妹なんだ」