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第二話

   2


 玄関をくぐるなり、凛子は溜め息を漏らした。


 小屋のなかはもはや惨状と呼ぶにふさわしいほどの散らかりようであった。紙くず、汚れた皿、工具。床の踏み場もないほどにものが散乱した室内は、実際の広さよりもずっと狭く感じられる。どこかで羽虫の音がしていた。凛子はところどころに見えるフローリングの部分をたどって、どうにかソファまで到達する。


「ここには一人で暮らしてるの?」


 凛子はなにげなく訊ねたつもりだったが、台所でコーヒーを淹れる直毘は、


「客が来ることなんてないからな。片づけてなかったんだ」


 と会話を先回りするように答えた。


 狩人の労働環境の劣悪さは噂にも聞いている。人類が劣勢を強いられるいまこの仕事に進んで就きたがる者などなく、社会的に弱い立場の人間が最後に行きつく死に場所として狩人という職業が機能している。凛子は狩人に会うのはこれが初めてだが、狩人とともに仕事をした経験のある同僚たちはみな、それがいかに過酷な職業であるかを悲しい眼差しとともに語るのだった。


 どの拠点においても狩人の小屋が必ず防御壁の外に建てられているのは、獣たちの動向を探りやすくするためではなく、狩人がその銃口を壁の内側に向けられないようにするためだといわれている。内側の人間たちは狩人の背後をとれる状況にあって、狩人が怪しい動きを見せないかどうか常に見張っている。人類の敵は獣であるが、狩人の敵はなにも獣だけとは限らない。そういう味方なき状況下で、狩人たちはしだいに精神をすり減らしていく。


 やがて直毘が二人分のマグカップを持ってくると、凛子はカップの縁と内側に汚れがないことを入念に確かめてから口をつけた。首都には出回っていない安物の豆で淹れたコーヒーの酸味が舌にしみる。


「獣の生態を調べにきたといったが」


 名刺をいぶかしげに眺めながら、直毘はコーヒーをすすった。


「いったいなにをするつもりだ」

「私たち国立開花研究所、通称『花研(かけん)』は開花現象の原因究明だけでなく、その解決策についても研究している」

「具体的には?」


 直毘の視線が名刺から凛子へと移動する。あまりに鋭い眼差しに、凛子は頬を刃物で切られたかのような痛みを錯覚した。


「開花現象を防ぐ方法の発見と、開花により獣になった人間をもとに戻す手段の確立よ。そのためにまず、獣たちの生態を知る必要があるの」

「獣を人間に戻すだと? そんなこと、できるわけがない」


 直毘は名刺を開けっぱなしの工具箱のなかに放りこんだ。凛子は彼の決めつけたような言い草に多少の不満を感じつつも、それを胸に押しこめた。


 銃の扱いを心得ているとはいえ、凛子は獣との戦いにおいて素人同然だ。この森で調査をするにあたって、直毘の協力は欠かせない。


「あなたは獣と毎日のように戦い、誰よりも獣と向き合ってきた。狩人としてのあなたの経験や考えを否定するつもりはない。でも、私だって本気。これを見て」


 凛子は持っていたタブレット端末を直毘に手渡した。


「フランスの開花研究者がまとめた最新の論文よ。そこには、獣が開花まえの記憶を保持している可能性について書かれている」


 直毘はあごに手を当て、長い時間をかけて論文を黙読した。凛子はまるで自分の論文を査読されているかのようなプレッシャーを感じて胃痛がした。むろん、さっきの安物のコーヒーのせいかもしれないが。


「つまり、やつらには人間だったころの記憶が残っていると?」

「開花した人間は姿だけではなく精神も獣に変わり、人間を敵対視して襲うようになる。でも、完全に獣に支配されるわけじゃない。まだ人としての心が残っているのかもしれない。そう結論づけられている」


 筆者は獣を生きたまま捕獲したうえで、周辺の集落の写真や映像、配給物資に印字されたメーカーのロゴなど、その土地の人間なら誰でも知っている情報を提示した。すると、獣の脳波に変化が見られ、攻撃的であった性格が短期間ではあるが落ち着いたという。


「だからといって、人間だったころの記憶が甦ったとは断定できないだろう。脳波の変化は単に写真や映像のなかに興味をひくものがあっただけかもしれないし、どんなに凶暴な獣にも穏やかになる瞬間はある」


 凛子は直毘がきわめて冷静に反論してくることに驚きながらも意見を述べた。


「でも、なかには獣になった人間の私物を見て過剰な反応を示した個体もいた。加えて、その人間の家族と対面させたところ、獣は涙を流しながら鳴き続けたという結果も出てる。これも偶然だと思う?」


 直毘は口をきつく結んだまま凛子と見つめ合った。だがそれは、反論できずに悔しがっているというよりも、妄想にとらわれた研究者を憐れんでいるかのようで、凛子は耳が熱くなるのを感じた。


「信じてくれなくてもいい。それに私だって、論文に書いてあることがすべて真実だとは思わない。でも、開花の研究を行ううえで、獣の生態調査は必要不可欠なの。だからどうか協力してほしい」


 立ち上がり、深々と頭を下げる。もともとプライドが高い凛子は他人に頭を下げるのが大嫌いなのだが、このさいどうだっていい。開花現象が世界で初めて確認されてからおよそ五十年。いまだ遅々として進まない開花研究の最前線を少しでも推し広げる。そのためにこそ凛子はここへ来た。もしも彼女のちっぽけなプライドひとつで状況が少しでも変わるなら、いくらだって差し出すつもりでいた。


「生態研究というが、獣はおれたちに合わせちゃくれない。むしろ牙を剥いて襲いかかってくるぞ」

「わかってる。だからこそ、私たちは獣の仕留めかたも学んでる」


 肩にかけた猟銃が、かちりと音をたてた。


「それに私たち研究員は、予め遺書を書いてからここへ来ているの。もし私になにかあったら、両親のもとに届くよう手配されている。遺書は覚悟の証し。私は自分の命と引き替えてでも、ここでなにかをつかんでみせる」


 下げ続ける顔のまえに、花研のネームプレートがぶら下がっていた。そこに描かれている蕾のエンブレムには、開花現象を未だ解き明かせない研究者自身への戒めと、これから花開くであろう希望に満ちた未来への願いがこめられている。凛子がいるあいだに花が開くとは限らない。死ぬまで蕾は蕾のままかもしれない。ただそれでも、いつか咲き誇る未来のために進みつづけるのだと心に決めていた。


 凛子の話を黙って聞いていた直毘は、わかった、と低くつぶやいた。


「ただし、条件が二つある。一人で森へ行かないこと。そして、森ではおれの指示に従うこと」

「ええ、そのとおりにする」

「よし。その二つを守っている限り、自由に動いてもらってかまわない。あんたはあんたの仕事をやりとげることにだけ集中してくれ」


 そういって、直毘は手を差し出した。


「直毘。大山直毘だ」


 凛子は思わず噴きだしてしまった。ぶっきらぼうで、しかもあまりに遅すぎる自己紹介だったからだ。


「ありがとう、直毘。これからよろしく」


 差し伸べられた手をしたたか握り返すと、直毘は獣のような目をわずかに細めて笑った。

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