第一話
月の浮かぶ夜に鳴きます。
月のない夜に泣いてください。
1
雷鳴のような鳴き声が、紅葉を切り裂いて響く。額に滲む冷や汗を拭いながら、直毘は森の空気が一気に冷えこむのを感じた。
息を殺し、低い草よりもさらに身を低く屈めて、獲物の気配を探している。
森閑。
直毘は地に頬をつけ、土と一体になる。この身体は死んでいる。土に還っている。自分自身にそう言い聞かせる。木漏れ日がちょうど直毘の目元に差しこんで、月の色の瞳を灼いた。涙が一筋流れて、土に沁みた。防護マスク越しに腐葉土の臭いを嗅ぎながら、直毘はそれが自分のからだから放出されているのだと思って死人になりきる。
しかし、瞳は忙しなく動いて、銃口は常に撃つべき相手を求めている。黄色い瞳は獣の瞳。狼の瞳だと、かつて妹に言われた。兄さんの瞳は、いつも何かを探している。この世界にはない何かを。その言葉は、妹がいなくなったいまも、直毘の耳にこびりついて離れない。
ふたたび咆哮が起こり、鳥たちが一斉に飛び立った。まるで地震でも起こったのかと思うほど、森全体が震えている。直毘は地を這う姿勢のまま、北へ北へと進んだ。注意深く、わずかな変化も見逃さないとでもいうような厳しい目であたりを見回すと、三十メートルほど向こうに一輪の花を認めた。そよ風に揺らいでいた赤い花がやがて大きく水平に滑って消えたかと思うと、その奥から狼か、あるいは山犬を思わせる獣があらわれた。
いや、違う。花が獣のからだに咲いているのだ。青白い横腹に開く花は、血の気をすべて吸い取ったかのように瑞々しく、遠目には血が噴き出しているとさえ見える。
花をまとった獣。
あるいは、開花が生んだ化け物。
それを屠るために狩人がいる。
スコープ越しに照準を合わせ、引き金を絞る。めしべを狙って放った弾丸は、わずかにそれて赤い花弁を散らした。獣は痛みに声を荒らげたが、まだ死んではいない。直毘は息を止め、もういちど狙いをつける。
そのとき、怒りに牙を剥き出しにした獣と目が合う。こちらに気づいた獣は手負いとは思えぬ俊敏さで迫ってくる。木々の隙間を縫って互いの距離をつかみ合う攻防。煩わしい計算式は不要。命と命の距離を測るものさしを、直毘も獣も常に持っている。
湿った森に響く発砲音。確かに当たったという手応えが、直毘の恐怖を上書きする。右目を撃ち抜かれた獣は短い断末魔を上げ、巨大な体躯が硝煙の向こうに倒れた。
まだ大人になりたての雄だった。直毘は慣れた手つきで死体の腹を捌く。何日も食料にありつけていなかったのか、胃のなかは空っぽで、少なくとも人間を食べた形跡は見当たらない。
「こいつじゃない」
直毘は先ほどの咆哮を思い出す。大地を揺らし、森を震わせるほどの声を上げた獣の姿を想像する。
「どこにいる。おまえはいま、どこにいる」
答えはなかった。森はすでに静けさを取り戻し、空に逃げ去っていた鳥たちも、いつの間にか直毘の頭上で羽を休めていた。
◆ ◆ ◆
狩人の小屋は、防御壁の外側にある。
村は五メートルを超える鉄の壁に囲われており、およそ三百人がそこで暮らしている。南北には通行用の門がこしらえてあるものの、配給以外で開くことはめったにない。直毘の住まいを兼ねた監視小屋は壁の外面の上部に貼りついて建てられていて、たまに村に用があるときには直結の通用口を使う決まりとなっている。
第二五九直轄区ホ村。国の直轄区ではあるが番号は下から数えたほうが早い二五九番目、さらにそのなかでもアイウエオ順で三十番目のうらぶれた村である。名もない川の下流に近く、四方を森に囲まれて獣たちに脅かされる日々を送るこの村は、まさしく限界集落と呼んで差し支えない。マ村からン村まで獣たちに滅ぼされたいま、この村はいちおう防衛の最前線を任されてはいるものの、獣たちを追い返すだけの力も度胸もなく、村人たちは常に何かに嘆き、憤りながら、いつか来る終わりの日を逆算して生きている。この世の辛さを煮詰めたような惨めな場所だ。
壁の外周に沿って歩くと、獣の爪や牙の跡が目立つだろう。直毘はこの村で生まれ育ったからほかの場所を知らないが、中央の大都市でさえも、こうやって壁で四方を囲い、世界に向けての門を閉ざしているという。傷は数え出したらきりがなく、補修された痕跡もちらほら見られるが、ほとんどは放置されて錆が膿みのように蓄積している。この傷の数だけ獣たちが村に押しかけ、それを狩人たちが迎え撃って、ときに命を落とした。
獣たちの数が年々増え続けるいっぽうで、狩人の数はむしろ減少傾向にある。ただでさえ危険が伴う仕事だし、そのうえ壁のなかの生活に慣れた者たちにとって猟銃はいろいろな意味で重すぎるのだろう。となれば、白羽の矢が立つのはその集団のなかで立場が弱い者や、差別されている者に限られる。直毘の家系がそうであるように。
狩人であった父は言った。狩人とは悲しい存在だと。人から嫌われ、獣からも憎まれる、報われない者たちであると。直毘はその言葉を折に触れて思い出す。引き金を絞るとき、鋭い牙が頬をかすめるとき、その言葉を思い出して心に冷たい風が吹く。
その日、巡回を終えて小屋に戻ると、玄関の前に女が立っていた。
「ようやく帰ってきたのね。待ちくたびれたわ」
梯子をのぼりきった直毘に、やや棘のある言葉が飛んでくる。
女は玄関戸に背中を預け、足を交差させて、直毘を見つめている。まるで値踏みするような、複雑な印象の眼差しだった。マスクで口元が隠れているため顔立ちははっきりしないが、声の感じからして直毘よりもずっと若いのは確かだろう。
「誰だ、あんた」
直毘は彼女が肩にかけている猟銃に目を遣り、言った。あえて新人と付け加えたのは、その銃に傷ひとつついておらず、使いこまれていないことが見てとれるからだ。
「あら、村長さんに聞いてなかったの?」
彼女が手渡してきた名刺を、直毘はまじまじと見つめる。国立開花研究所研究員、美原凛子。開花現象の原因究明と根本的解決のために集められたスペシャリスト。しかし、国家認定の研究員がこんな辺鄙な村へ何用だろう。
「研究の一環でね、このあたりの獣の生態を調べに来たの」
腰に手を当て、顔をやや上向きに話す凛子の佇まいには認定研究員という肩書きへの自信が感じられ、初秋のそよ風になびく髪からはマスク越しでも都会のにおいがした。一語いちごの輪郭がはっきりした話し方は、決して揺るがない芯をからだの内側に備えている証しのようでもある。開花研究所から来たということは、首都の人間だろう。都会に住む者はみな、こうも鼻につくものであろうか。
「ここは学者風情が来るところじゃない」
「大丈夫よ。銃の扱いなら知ってるから」
凛子が銃を構えて引き金を絞ると、十メートルほど離れた木になっている実が弾けた。
「ほらね」
「秋は獣たちが殺気立つ。いまの音で奴らを怒らせたかもしれん」
直毘は苛立ちをこめて言うが、凛子は冗談が通じない相手を茶化すかのように、わざとらしく肩をすくめた。
「言っておくけど、今回の調査は正式なものよ。あなたのところにも協力要請の通達が来ていたでしょう」
「村長から手紙が来ていたが、内容は確認していない」
「確認くらいしときなさいよね。とにかく、なかに入れてくれない? もう何時間も立ちっぱなしで足がパンパンなの」
「話を聞くだけだ。協力するかどうかはそれから決める」
直毘はポケットから古びた鍵を取り出して、玄関の戸を開ける。散らかった室内を目の当たりにした瞬間、少しは片付けをしておけばよかったと後悔した。