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第6話 冷床にこそ、自ずと咲き撓(おお)るは・・・その泪の際にか。(参連)

アティ、アティ。他に名も無きただのアティ、か。


彼、フラルブカヌム・ノドゥス・オブスライディエは、手元の書類から目を離した。

オブスライディエ公爵家宛の信用状と共に公爵家の情報網を使って調べさせた彼女の情報の全てがここにある。

だが、と彼はこれをどう解釈するべきなのかと結論を出せない。

「あまりにも、少なすぎる。」

そう呟きながら、もう一度書類に目を落とす。


善なるコランディナルと呼ばれるほど、権力欲を最も持たない家門であるコランディナル伯爵家は古い歴史を持つ名家ではあるが、政治を厭い、学問を愛する一族である。

だが、そのあらゆる分野における知識に基づく深い見解は帝国において、特に皇家においては尊重され続け、彼らは《帝国の良心》とまで言われているほどであった。

そしてその現伯爵家当主の弟であるセラフィス・ユスト・コランディナル。

彼は生まれ育った家門にではなくアクリラウム=アカデミーに籍を置く者である。

アカデミーの歴史上においても稀代の天才と呼ばれる彼は優れた研究者であると同時に後進を育てる懐の深い指導者でもあった。

名門伯爵家の次男であるという恵まれた環境と自らの持って生まれた才能が切り開く自由さを己が運命に見事に甘受させて彼は豊かな人生を送っている。

そして彼と彼の兄はアカデミーにおけるフラタニティ(男子寮)で共に黄金の時代を過ごした仲間でもあった。

そう彼らと彼と、そして・・・。



「ふうう。」

口からもれた溜息が封じていた思い出の燻りを抑え込む。


その彼からの信用状という名の紹介状を彼女は持っていた故に、フラルブカヌムは彼女を、名も無きアティを公爵家に迎え入れたのだ。

そしてアカデミーのセラフィスにすぐに彼女についての照会を送り、あらゆる情報網を持って彼女を調べ上げた。

だが、セラフィスは実験の検証機関に籠っている時期で連絡は取れず、公爵家の情報網をもってしても何も、全くといっていいほど、彼女について分かることは何も無かった。


これほど情報が少ないということは、彼女は帝国の人間ではないということか、と導きだせた結論はそれのみ。

だが、大陸中に張り巡らせた情報機関でさえ彼女の素性に行き当たることができないとは。

「早くセラフィスと連絡が取れればいいのだが。」

と幾ばくかの苛立ちと共にセラフィスの手紙を思い起こす。



『 親愛なるフラヌ。彼女はアティ。名も無きただのアティだ。

だが、実に優れた才能の持ち主なんだ。アティは帝国に居を構える必要があるらしくてね。

アティがどうして帝国に行きたがってるかは僕にもよく分からないけど、とにかくアティは優秀で実直な女の子だし、そもそもアティを僕に引き合わせたのは”彼女”だから。

僕はアティをフラヌに託したいと思ったんだ。

アティには、「フラヌは信頼に値する人だよ」って言っておいたよ。

繁忙期が抜けたら、そのうち僕もそちらへ顔を出すから、アティのこと、よろしくね。』



これが紹介状で彼女の信用状か?と呆れるほどのラフさだが、セラフィスらしいといえばいかにもな手紙だった。


そして彼女を屋敷に招いてからの数か月、彼女が優秀なのかは判明しないまま、だが、屋敷の者達や騎士達、彼女の護衛につけたメイリ、その誰もが彼女のことを頻繁に口にするようになったのは確かだった。

最初、屋敷の者達は皆、彼女をどこかの家門の令嬢かと思って丁重に、だが遠巻きに観察するような空気が流れていたが、彼女は自分が”名も無きただのアティ”であることを隠そうとはせず、彼らと同等の立ち位置を望んでそこに臨んだ。

だが、アティには、どう表現するべきかは難しいが、決して”名も無き”出自であるとは言い難い雰囲気が匂い立つかのように彼女自身を包み込んでおり、代々公爵家に仕える者達は本能的に彼女の身分ではなく彼女自身に敬意を払うようになっていた。


そして、誰もが驚いたことに一番影響を受けたのは、女性騎士のメイリだった。

メイリは過酷な幼少期を過ごした故に、公爵家以外の貴族に対して良い感情を抱くことは少なく、特に同じ年頃の貴族令嬢達に対してはむしろ侮蔑の眼差しを向けることも多かった。

だが、そのメイリが、気付けばこの少女のような女性のような不思議な”名も無きただのアティ”に親愛の情を向け始めた時、屋敷の者や騎士団の者そしてフラヌ自身も驚きの念を隠せなかった。



実に不思議な在りかただな、とフラヌは思う。

アティは護衛のメイリと共に頻繁に街に出かけるようになっていたが、メイリにはその報告の義務は課していない。だが、彼の陰はアティの大きな動きの把握を彼に報告してくる。

怪しい動きも無く、特に困った事件に巻き込まれているわけではないようだが、いったい何をしようとしているのかと疑問に思うくらい、アティは様々な場所を訪れていた。

皇太子に会いたいと望む彼女と帝国を彷徨うかのように動き回る彼女。

いったい彼女の目的は何なのかと彼女を問いただしたい気持ちは大きくなっていったが、これは監視や干渉を含んではいけないこと故に。彼女が無事にすごしているのなら、問題なしとして見守るべきラインだった。

そろそろ彼女に受けている陰の護衛を外す頃合いだろうか、等と考えながら夜闇に浮かぶ月を見上げる、とコンコンと、ノックの音が静寂に響いた。




「これは。」

カップに口を付けた彼が立ち昇る香りを嗅ぐのを見ながら、アティはドックンドキンと鼓動が早くなるのを必死に押しとどめる。

「お分かりになりますか?」とアティは早口で彼に問う。


「いや、全く分からぬが。良い香りだ。」

それだけ言うと公爵は、一口、二口とカップの中身を口から喉にゴクン、ゴクンと呑み込むと、カップをテーブルに置いた。


彼女はもう何も言わず、ただ彼の飲みっぷりだけを見つめている。


公爵の薄っすらと浮かべた微笑みと共に無意識のような囁きが彼女に響いた。

「うむ。美味いものだな。これはなんの茶になるんだろうか」


アティは彼の飾らない言葉がただただ嬉しかった。

彼女は公爵の為にお茶をと思いたった時から時間をかけてメイリや屋敷の者達から彼の体調、嗜好などを聞き取ると、様々な要因を基に茶葉、薬草などをブレンドし、彼オリジナルのお茶を作り上げていった。

それを彼がなんの警戒心も持たずに飲み干して、美味いと言ってくれたのはアティにとってはなによりのご褒美だった。


公爵が放った素朴な疑問に対して、彼女は茶葉の種類、効能などを交えながら解説を広げ始めた。

彼はそんな彼女を見つめながら、好きなことに夢中になっている顔に浮かぶのは幼いもののそれなのだがな、等と自分の中に爽快な風がふっとひと吹きするような感覚を覚えていた。



彼女の話がひと段落したのを見計らって彼は言葉を繋ぐ。

「屋敷の者達にも煎じてくれていると聞いた。皆、喜んでいるとコバギが言っていた。俺からも礼を言う。茶葉は好きなものを好きなだけ、コバギに言いつけてくれ。」


そこにはまっすぐな感謝の気持ちと彼女の懐具合へのさりげない配慮が在った。

この人のこういうところが、とアティはまた自分の心が揺らされるのを感じる。

公爵家が今の公爵家であるのは、当主である彼の器の大きさと心根の深さ故なのだろうと。


「そうだ。大事なことを忘れていたな。」

と二杯目の茶を飲み干した公爵がアティに言った。


「そなたの願いが叶う。彼に会えるぞ。」



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