第22話 一輪満ちて…一凛の。(壱連)
「いよいよ君もここを去るのだな。」
「はい。本当に貴方さまや皆様には感謝しかありません。」
「いや、私たちのほうこそ君からは様々なことを学ばさせてもらった。しかし…寂しくなることだな。」
しんみりとそう言葉を零すのは褐色の肌の若者だった。
スラリと背の高い彼は衣服の上からでも鍛え抜かれた筋肉質な身体が窺える。
銀色の髪を後ろに結った彼の彼方の空のような水色の瞳が彼女の瞳を覗き込むかのように凝視している。
「帝国に戻るのは君の中では、心は整っているのか?」
「怖くないといっては嘘になりますが。
あの場所で私を信じて待っていたくださったあの方の元へ戻るのだと思えば心が爽快でさえあります。」
「そうか。では道中気を付けて。あの子のことをよろしく頼みます。」
そう言って彼は彼女に礼を取る。
「おやめくださいませ。」
この国の聖なる祭事の全てを司るテンプルムの長である彼は彼女の言葉をさらりと流し彼女の手を取った。
そしていつの間にか彼女の手首には美しい青の宝石を編み込んだかのような腕輪がはめられていたのだった。
「あなたにこの国の守護があるように祈っている。
トルティットは貴女を忘れない。どうかここを故郷と思っていつでも帰って来てほしい。」
「お優しいお気持ちに、心より感謝申し上げます。」
込み上げる涙を懸命にこらえながら彼女は彼に向きあってゆっくりとカーテシーを捧げた。
「ディラリア。貴女の前途に幸運を。」
彼は彼女の側に跪くともう一度彼女の手を取った。
そうしてこの美しい海の国トルティット王国を成す青という青を散りばめたかのような、そこに煌めく水色にはまるで目の前の彼の瞳を溶かし込んだかのような、そんな宝石で細工された腕輪の上に、ディラリアの手に、彼はゆっくりと自分の唇を、熱い口づけを落としたのだった。
「ああ、何年ぶりだろう。」
ディラリアはトルティット王国から航海してきた船から降り立ち、マリディクトベリシュ帝国の地に足を踏み入れた。
彼女は迎えに来た馬車に乗り込み、馬車の窓から流れる景色を楽しんでいる自分が不思議な気がする、とそう思える自分さえクスッと笑えることが妙にうれしかった。
港から郊外を抜けて首都の街並みが見え始めた。
いよいよだわ、とディラリアが自分の胸がドキン、ドキンと弾み始めたかのような、その心音が全身に響き渡っていくような感覚に包まれ始めた。
ガタンっと馬車が大きな音を立てて止まった。
パタンっと馬車の扉が開かれ、ディラリアはゆっくりと馬車の外へ身を乗り出した。
御者だろうか、馬車から降りようとステップに足を置いた彼女を支えようとすうっと手が差し伸べられた。
「ありがとうございます。大丈夫ですよ。」
と丁寧にそのエスコートを断ろうとしたディラリアは唖然としたまま、彼女のその口から零れた言葉をはたった一つ。
「騎士、さま。」
騎士の装いのその人はディラリアの手をそっと自分の手に置くと彼女が馬車から降りるのを支えながら、にっこりと微笑んだ。
「おかえりなさい。ディラリア嬢。」
「ルリさま。私の騎士さま。」
歓喜の波がディラリアの胸を震わせ、その瞳からは、はらりはらりと零れ落ちる涙はもはや止まることはなかった。
その日、マリディクトベリシュ帝国皇太子イマグヌス・プリムポルタス・マリディクトベリシュの許嫁であるトルティット王国王女ルリエティア・アウルム・トルティット姫の居住する黎明宮に新しい侍女が迎え入れられた。
丁重なもてなしで迎え入れられたその侍女は、王女のたっての願いで母国から帝国へと遣わされた者だという触れ込みが黎明宮の使用人たちから帝国貴族の使用人たちにまであっという間に広がっていく。
そして使用人たちからその主たちへと波紋を及ぼす。
やがて新たな火種をそこに見出したかのように、社交界にはその侍女に関しての様々な噂がめぐり始めたのであった。
離宮に引き籠っていた王女が新しい侍女を母国トルティット王国から迎え入れたのは皇太子殿下との婚姻の日程が決まったからではないのか?
放置され続けた王女が母国に願い出て皇太子殿下との婚約を破棄して母国へ帰郷しようとしているのでは?
あの侍女は婚姻を拒む王女のために用意された皇太子の側室候補ではないのか?
その謎の侍女はいったいどれほどの身分と技量を持ち合わせた女性なのか?
どんどん溢れる噂に更に尾ひれがつき、日々湧きあがる新しい噂に黎明宮の彼女たちはお腹を抱えて笑い転げたくなるほどだった。
「ディラリア、貴女もそろったことだし、そろそろ私たちも動こうかと思うのだけれど、あなた、心の準備はできていて?」
「はい。ルリさま。いつでも大丈夫でございます。」
「そう、では始めましょう。派手にいくわよ?」




