第1話 その土壌は、温床たるや? (壱連)
「今日は、どんな花をご所望ですか?」
館の扉が開かれ、そこに迎え入れられた女性はその言葉に背筋がゾクリっと身体に震えが走るのままに自分が歓喜に呑まれるのに身を任せた。
「アレンジからお任せしたいの。お願いできて?」
そう言って彼女は自分に応対する館の者に言い放った。
「かしこまりました。では《コンシリウム》から始めましょう。こちらへ。」
マリディクトベリシュ帝国。
大陸中央に位置するこの国は建国時には自給自足が厳しいほど痩せた土地を有する小王国でしかなく、東西の大国の属国になるしか生き残る道はないとまで追い詰められていた。
だが、初代王は大国に従属することを拒む。
そして東のモストゥ―ル王国・西のタティ二アリグテ公国がこの小さな王国に侵攻して国土を分割をする密約を交わそうとした時、マリディクトベリシュ国の王太子ウィリディスは海を渡って大陸と交易関係にある海の島~トルティットに助けを求めた。
トルティットは海に浮かぶ島国であり、さほど大きな面積を有しているわけではないが、東西の大国だけでなく大陸中の国々が海の交易において中継地点でもあるトルティット国の重要性を理解して無碍には出来ない。
また彼らは海と共に生きてきた民族であることから、造船技術、航海術に長けており、その“海を御する力”によって、地の人間である大陸の国々から一目置かれている民族でもあったのである。
だが、そのトルティット国が大陸小国であり交易においても力のないマリディクトベリシュ王国を助ける理由はない。
マリディクトベリシュ王国の者達ですら、王太子の試みに賛成する者はおらず、中には王太子は国を棄てて海に逃げるのではないのかとさえ噂する者も多かったほど、もはや、このマリディクトベリシュ王国の命運は尽きたかに見えた。
だが、王太子ウィリディスは戻って来た。
一人の女性を連れて。
彼はトルティット国の第一王女を自らの花嫁として連れ帰ったのである。
そしてこの婚姻によって、トルティット国王はマリディクトベリシュ王国王太子の岳父となったという義理をもってマリディクトベリシュ国の王太子ウィリディスに絶大な支援を与えることを大陸中に宣言したのである。
これによって東西両大国の侵攻は阻止され、マリディクトベリシュ国王太子ウィリディスは即位して国王となった。
そして海を渡って遥か彼方の島国から大陸のマリディクトベリシュ国に嫁いできた王女は祖国の宝である“海を御する力”を愛する者に捧げた。それによってマリディクトベリシュ国は大陸強国への道へと踏み出したのであった。
それも今は昔のお伽噺に近しいほどの、はるか彼方の時に埋もれたものがたりとなって~そうして気付けば、この国は大陸を吞み込んで大帝国となっていたのである。
そして、マリディクトベリシュ帝国建国より数百年が経った現在、この国は新しい皇妃を迎えようとしていた。
遥か彼方の地より海を渡って帝国皇太子の元に嫁いでくるのはトルティット国の王女。
大切に大切にと育てられたという深窓の姫君は、虚弱な体質ということもあって海を渡って帝国に辿り着いた後には命に障るほどの病を患ってしまう。
そしてなんとか命は取り留めたものの、病床から起き上がられぬままその姿を決して人前に晒すことなく、療養の為に帝国の離宮にて過ごすこととなった。
やがて、王女の回復と婚姻の準備期間という理由で延期されたままのこの婚姻はいつの間にか、人々の口の端にも載らなくなっていったのであった。
つまり帝国はゆくゆくは皇太子妃となるはずのこの異国の姫君のことを忘れようとさえしていたのであった。
「そもそもあんな小さな島国の王女を娶らなくても、皇太子様には大陸の他の国々からいくらでも皇太子妃をお迎えになれるはずでしょうに?」
「なぜ我ら誇り高き帝国貴族が、あんなちっぽけな野蛮な異国の王女に頭を垂れなければならないのですか?」
「そもそも、人前に出ることさえ叶わぬほどの病を患っているとは。とんだ欠格品を押しつけられたのでは?」
「なんの力もない島国が帝国に向かって無礼極まりないことだ。この婚姻は帝国には必要ないのでは?」
神秘のヴェールに包まれた深窓の姫と噂されていた王女の評判はどんどん下がっていく。
帝国貴族達は王女側からの反論が無いのをいいことに無礼千万ともいえる態度を示し始めた。
「皇帝陛下。我ら帝国貴族全ての総意をもってお願いに参りました。」
そう言って皇帝陛下に嘆願を申し出たのは、帝国を支える四翼と呼ばれる中でも特に力を持っているボルギィッタム公爵であった。
「帝国の光であられる皇太子殿下の花となられるべき皇太子妃として、あの王女は不適格でございます。皇太子殿下にはもっとふさわしい御方がおられるはずです。どうかあの王女との婚姻を破棄なさっていただきたく~」
公爵はつらつらと意見を述べ続けるが、謁見の場にいる貴族達は公爵が何を望んでいるのかを理解していた。
皇太子妃にふさわしいのは、おそらくはボルギィッタム公爵の娘であるといいたいのだろうと。
だが、誰も公爵に向かってそれを言葉にすることはできない。
それに年頃の娘を持つ貴族達の全ての頭の中にもまた、皇太子妃は公爵家に譲ったとしても、この機会に便乗してあわよくば側妃の地位が転げ落ちてくるかもしれないではないか?どこか遠い親類から美しい娘調達せねば等と、そんな欲まみれの貴族達のギラついた夢が彼らにボルギィッタム公爵の嘆願の追い風となっていたのは間違いなかった。
「だが、トルティット国との古からの約束を違えるわけにはいくまい。」
皇帝陛下は溜息をつくように言葉を吐いた。
「あのような国、今の帝国の軍事力をもってすれば、何も言えますまい。
それに、病弱な王女にゆくゆくは皇帝陛下の後継として国を背負って立たたれる皇太子殿下の隣に立つ力量はございますまい。お世継ぎとて~」
「そうでございます。どうしてもと食い下がってくるようでしたら、側妃になさればよろしいかと。
そしてどうか国母となられる皇太子妃にはもっと皇太子殿下にふさわしい高貴な方をお選びください。これはこの国の臣、民の総意でございます。陛下、なにとぞご英断を~」
矢継ぎ早に自分達の意見を押し通そうとしてくる貴族達に辟易しながらも、自らの権力に自信の持てぬ現皇帝は決して否定的な言葉を使うことはなかった。
「皇太子よ。そなたの妃のこと故、そなたの考えをもうしてみよ。」
皇帝陛下は息子である皇太子に話を向ける。
これは、息子のことを慮って、というよりも話の矛先を変えたかったからであるが、皇太子は父の意向を受けていつもながらのにこやかな笑顔で応える。
「私の為に皆さんがご考慮いただけるのは、ありがたいことかと。」
玉座の皇帝陛下の側に立つ皇太子は笑顔を崩さぬまま、その高みから貴族達に視線を流しながら、最後にボルギィッタム公爵の目を見つめながらこう続けた。
「公爵の深慮に感謝する。ご令嬢はお元気かな?」
「はあっ。殿下の」と言いかけた公爵の言葉をさらりっと遮って皇太子が言葉を続けた。
「陛下。せっかくこうして貴重な意見をもらったことですし、こうしてはいかがでしょうか。」
「姫様、姫さまあ~。」
黎明宮に若い侍女の声が鳴り響いた。
バタンッと大きな音を立てて侍女が部屋に飛び込んでくる。
「ルレリ。落ち着きなさい。」と侍女長がその少女のような侍女を窘める。
「まあ。ルレリったら。今日も朝から元気なのね。いったいどうしたの?」
朝のお茶を飲んでいた彼女はフフフと微笑みながら、ティーカップをテーブルに置いた。
「き、きました。」
ルレリは両手で抱きしめるかのように持っているものを差し出した。
侍女長がそれを受け取って、彼女のテーブルにそっと置いた。
「あら。これは。」
彼女はその手紙を手に取って差出人の名を見る。
部屋にいる誰もが手紙を見つめる彼女を見つめながら、彼女の言葉を待っているようだった。
「そろそろ頃合いだったわね。こちらも仕上げにかかりましょうか。」
呟くようにそう言うと彼女は部屋にいる彼らに向かってにっこりと微笑んで言った。
「さあ。忙しくなるわよ。みんな、準備はよくて?」