第1話 学生時代①
私は、今学生である。学生といっても特に幾級生と決めるわけでもなく、ただ学生である。
昨日、私は感動した。なにせインターステラーを見たからだ。なにかというと、心象風景と自然物理現象の合致が、ここまで芸術性を帯びるのか、と思ったからである。
また、芸術を行う表現媒体としての「映画」は大変面白い性質を持っていると気づいたのだ。絵画にはない、「時間軸」の発生。音楽にはない鮮烈な「イメージ」。そして、総合芸術的観念での優れた性質を遺憾なく発揮する、インターステラーの職人ぶりには驚かされるばかりである。
興奮冷めやらぬまま、布団に入り、そして見た映画について考えながら眠りにつくのが、最近の日課である。その時に見た映画が、私の眠りを浅くし、そして自分の根っこにこびり付いてくれるからである。
次の日目が覚めると、朝七時であった。学校の始業は七時十五分であるため、猛烈な焦りと軽く焼けたパンと共に、家を後にした。
最近の学業といえば、だいぶ悲惨なものである。それは、勉学の難易度が上がってきているという理由もあるが、それ以上に映画のことを考えすぎて、脳の呂律が回らなくなっているというのが主な理由であろう。しかし、私にとってみれば、勉学を重視する必要性を感じていないともいえる。そもそも学校で習うことといえば、人によっては興味のないことを学ぶのであり、それは奴隷と一緒である。身体の自由も担保されず、思考の自由さえ守られない。こんなことがあっていいのだろうか?いや在ってはならない。
こういったことを考えていると、大体学校の終業の鐘がなる。結局は、今、危惧していたことは、私には関係ないようだ。
終業の鐘が聞こえたら、すぐに鞄を手に取り家へ帰る。クラブや部に入るような人たちもいるらしいが、あれは動機から能動なのだろうか?「頑張る」とか「精一杯」とかいう言葉に胡坐をかいて、楽しいほうに逃げているだけではないだろうか?いや楽しくないのにやっているのか?こればかりは答えが出ないのだ。
家の扉を開けると、安心するにおいと冷えた空気が私の全身を包む。ああ、私はここにずっといたい、と切に思うのだが、呪わば穴二つともいうので、生まれた国を呪うことはできない。
今日は八月某日。夏の盛りであるが、専ら部屋で過ごしているばかりに、肌は焼けないし、思想は強烈を極めるばかりである。私の家はそこまで金持ちというわけでもなく、ヒモジイわけでもなく、「普通」の幸せを手にした家だ。
最近の趣味は、映画とクラシックである。映画は先に話したので言うこともないが、クラシックは特にショパンが好みだ。半音の上がり下がりを駆使したピアノ曲には、熱狂せざるを得ない魅力がある。特に「英雄ポロネーズ」なんかは大変有名でかつ、私の最も好きな曲のうちの一つである。
今日は何をしようかと、鞄を自分の部屋の隅へ放ると、スマホを開く。私はよく、趣味がおじさんだと言われるが、個人的な感想としてはそうは思わない。一線超えないとわからない、言ってしまえば「高尚」な趣味、といえると思っているからである。
最近は、アルフレッドコルトーの演奏に夢中になっているので、まずはそれを聞く。
日中は父母共に働きに出かけているので、有難く大音量で演奏を流す。帰るのが3時ごろで、母が帰ってくるのが6時ごろなので、羽を広げられるのは三時間ほどである。三時間は短い、映画一本とポロネーズ全集を聞けば、すぐに過ぎてしまうような時間である。
今日は、コルトーの演奏をいくつか聞いたのちに、「かぐや姫の物語」を見た。これは某有名アニメーション映画会社が手掛ける、芸術映画である。不必要なものは描かずに、端的に、面白い表現方法で、監督の才能を余すところなく発揮した、大作だ。すでに今回で視聴するのが3回目。
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メガネに、テレビの映像が反射している。少しだけ部屋を暗くして見ているせいか、目がちかちかしてくる。この感覚は長時間画面を見ている映画でしか味わえない、独特な感覚で、私は好きだ。ただし目が悪くなりそう。
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、、、何度見ても圧倒される。監督は何を考えているのか?と思ってしまうほど驚かざるを得ない作品だ。生と死・嘘と誠・有と無などなど。簡単な対比だけでなく、全く定まらない、焦点が定まらない、どの合ってないメガネのようだ。