第15話 自由な関係
いつも夢は思い出せない。昨日の病院で見た夢も、ほとんど思い出せない。よく、夢を見る状態は、レム睡眠といわれ、浅い眠りだと言われる。浅い眠りだと、あまり疲れが取れないのではないだろうか。というか、およそほかの人はそうなのだろう。しかし私はそうではない。そもそも私は肉体を酷使するような機会は最近ほとんどなく、疲れという疲れはほとんどない。私の場合は、精神的な疲弊が強い。将来への不安、映画製作に対する自身への不満、その他さまざまなことを考えすぎて、私は自分自身に追い詰められてゆく。だから、精神的に大変疲弊する。そういう私は、夢を見るような眠りのほうが疲れが取れる。
なぜか?それは多分だが、夢の中で安心する出来事が起こるからである。思い出せないから何とも言えないが、多分空間に会いに行けるからだ。空間に会いに行けるときは、自分自身が狂い始めているときだ。
人間にとっての狂いとは、極めて単純なことであるし、さらに言えばそれ以外に言いようがない感覚だ。物事において、結果に行きつくまでの過程を気にしている人ならば、全く賛同できないような、極めて結果主義な感覚である。その狂いを高めることによって、空間に会いに行ける。
これは、狂ってしまって、とうとう頭がどこかへ飛んでしまったなどという、詰まらないものではない。言ってしまえば、普遍の極致であり、そして頭の蓋を開けるような行為ともいえる。そういったことを踏まえなければ、空間に会いに行くことはできない。
子供は皆その狂気を常日頃のように持っている。だから大人は子供と容易に渡り合うことはできない。当たり前だ、とてつもなく巨大な狂気を身にまとっている子供を大人は直視することなどできない。渡り合って、話し合う以前の問題だ。
よく、芸術などの、表現の道を極めるときは、基礎をものすごくやることが重要とか、それ以前のことを必死にやらねばならないということを言う人がいるが、それは過程であり、本質を問うたとき、私はそう思わない。それは、道の達人は子供だからである。子供がその内側を表現できる方法を身に着けたのが、達人なのだ。もっとも、一番重要なのは子供と同じ狂気を常に身にまとうことであるが、その次に重要なのがそれを外に出してゆく技術だ。基礎をやるとかは、その狂気を引き出す一片にしか過ぎず、それ自体が重要なわけではない。ただ、技術を高めるという意味では合っているといえよう。ただし、技術を極めただけではそれはただの見世物小屋と化すだけであり、表現の本質を問うものでは無くなっている。
ただ、空間と話すだけならば、全くその技術は必要ない。なぜならば外に出す、表現する必要がないからだ。だから私は、空間と話す。そういったしがらみ無しに純粋なものと出くわす経験は、大変な安心を私にくれる。それはスリリングでアトラクティブだが、同時に低反発枕のような優しさを覚える。
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