戦巫女 ナモタッサ・バガヴァドー
本書を
加藤柚衣と、佐々木時子に捧げる
ナモタッサは朝霧の中で、奇妙なものを見つけた。
古の言語(ババアの言によれば、それは"アルファ・ベータ"とのことだった)で、「S.C.T.F」と角張った印字がされている安全靴の爪先で、彼女は「それ」に群がった羊たちを蹴散らしていった。
大昔の人々と、彼らの遺した記録によれば、羊とは「べー」とか「ばー」とか、そんなふうに鳴くものらしい。
しかし、そんなのは嘘だ。
げんに目の前の「羊」たちは、ナモタッサが丈高い草をナタで薙ぐように無造作に追い払っても、そのうちのどれとして「べー」とか、「ばー」とか、そんな抗議の声は上げなかった。
彼らはただ、隙間風のような吐息を漏らすと、首を垂れたまま、ある種の厳かさをたたえてナモタッサに道を開いた。
そして、ただ道を開くだけではなくて、その羊たちのどれもが、自らはいずれ大河にて合流し、やがては大洋にて大いなるひとつとなる運命のもとに悠然と流れる水の一雫なのだといわんばかりに、ただ焦ることもなく、四方八方にむせぶ霧の中へと姿を消していった。
「かかわるな」
どこからか聞き馴染みのある声がした。
もちろん気のせいだ。
そうでなければ、死んだババアのしゃがれ声が、微かなすえた匂いとともに風にのって、彼女の耳に届くはずがなかった。
「それにかかわるな、戦巫女よ。
それはお前の命を縮めるものでしかない」
「うるせぇ、クソババア」
ナモタッサは心の中で毒づいた。
「姉さんは、どうしてそう天邪鬼なの?」
こんどはまた、別の声がきこえた。
年季を重ねたしゃがれ声とは打って変わって、春めく新しい季節の中にヒュウと吹く涼しげでありながら、どこか甘えた声だった。
それは、「ルン」の声だった。
いまは亡き妹の声が、時を告げる雄鶏の役目を担って、朝霧の中に、死者たちの声がさざめき出した。
最初ははるか遠くからきこえる微かな囁きであったそれらの声は、互いの響きに景気づけられて増幅し、はじけ合い、やがて空気の入れすぎによって手のつけられなくなった風船のように膨れ上がった。
ナモタッサは、手に持つ散弾銃のレバーを勢いよく引いて、薬室の中に弾丸を送り込んだ。
それは単に銃を発砲するための準備手続きであるだけでなく、あらゆる過ぎ去ったことが彼女自身を、あの果てのない記憶のうろの中へと押し戻してしまうことから逃れるための重要かつ、もっとも手っ取り早い儀式だった。
声は消えた。
突然の静寂が世界に訪れて、ナモタッサと、彼女が凝視するその奇妙な「もの」からすっかり遠ざかってゆく羊たちの、天然の牧草地を踏みしめる湿り気を帯びた足音さえもが、くっきりとした輪郭をともなって聴こえた。
陽の光が指してきた。それはかすかに緑みがかった光で、この大地にとってはごく当たり前の色彩だった。
朝霧は、いつしか“もや”程度の薄さに変わっていて、それすらもまもなく跡形もなく消え失せてしまうことだろう。
ナモタッサは、散弾銃を「それ」に向けた。
引き金に指をかけてこそいなかったが、もし撃つ必要が生じたら、まごついたり慌てたりはしないだろう。
また、仕損じることも、ない。
朝焼けが、羊たちの丘に眩しい光を投じ、それは同時に丘陵地帯に深い影の谷間も形づくった。
オレンジともグリーンともつかない光が世界を照らし出す中で、ナモタッサはいまはっきりと「それ」をみとめた。
「それ」は、みたところヒトのようだった。
しかし、果たして人間であるかは怪しい。
人型であることが人間というのなら、あのはるか西方に広がる“暴力平原”の連中だって人型をしている。
辛うじて、だが。
朝日が照らした「それ」の頬が、まばゆいばかりに白く輝いた。頬ばかりではない。額、おとがい、唇、首筋…。
それらが、なんの歪さもなく、一枚の滑らかな皮膚でピッタリと覆われていた。
それは地面に仰向けにのびていたが、見たところ骨格は不自然なほどに左右対称と思われた。
もはや頭の中に死者たちの声はこだましてはいなかったものの、ナモタッサは遠い昔に問わず語りで、周りの大人たちから教え聞かされたことを思い出していた。
「“うつくしき人々”に注意せよ…」
ナモタッサは我知らず呟いていた。
腰だめにかまえた散弾銃を握る手に力がはいる。
まだ、引き金に指はかけない。
目の前に横たわる“うつくしき人々”は見たところ男で、そして少年だった。
顔はもっとよく見る必要がある。
伸び放題の黒髪(陽の光を受けて全体的に赤く光っている)が、彼の顔の半分以上を覆い隠しており、ナモタッサは散弾銃の銃身の先でそれを払おうとした。
すぐに払いのけてしまうことはできたが、奇妙な葛藤が彼女の腕にのしかかった。
この少年の顔をつぶさに確認することが、ナモタッサのそれまでの人生すべて、そして、これから先のいつまで続くのかわからない人生のすべてを根底から否定することに繋がっているとしたら?
テラナイリクに降り掛かったあらゆる災いと愚行、それに対する不十分で悍ましい贖罪…。
それら全てに対して振り下ろされた最後の裁きの一撃だとしたら?
木の葉やこまかい枝が絡みついた汚らしい黒髪を銃のマズルで払いのけると、そこには顔のもう半分とかわらない、白く滑らかな皮膚で覆われた顔があった。
見たところ、東洋人のようだ。
「どうする?ナモタッサ」
またしても、聞き慣れた声がした。
「撃ってしまえば?
なに、銃口をそいつの額に押し当てて、君はその間そっぽをむくんだ。
あんまり聴こえない左のほうの耳を、そいつ側にむけておくんだ。
そして、引き金を引く。
どうだ、カンタンだろ?」
“ルン”の夫となった男の声だった。
マカストーバという名のその男は、高すぎず低すぎず、無遠慮な声でこう言った。
「後始末なんかせずに、君はそのまま踵をかえして、来た道を戻るんだ。
振り返らずにね。
小屋に帰れ。
“小さきシッカーパダン”に」
帰ってどうする?
ナモタッサは、マカストーバにきいた。
一日は、まだ始まったばかりだぞ?
「予定でもあるのかい?」
マカストーバはすかさずききかえした。
「羊肉が欲しいなら、帰りの道すがら撃っていけばいい。
ここいらで手に入るもんなんて他にないだろ?」
ナモタッサはこたえなかった。“うつくしき人々”の生き残りの少年から、視線を外せなかった。
「『ビン・ダンの冒険』を、君だって読み聞かされたはずだ。
僕たちはみんなガキの時分は、あの本でアルファ・ベータを覚えたろ?」
だからなんだってんだ?
「“うつくしき人々を警戒せよ”だよ。
わかるだろ?
“警戒”って言葉もその意味も、俺たちはその絵本から学んだはずだぜ。
おい、見ろよ。
そいつのツラ」
いつの間にか散弾銃の銃口は、少年の真っ白い額に押し当てられていた。
よく見ればその額には、赤いのや、黄色く膿んだニキビがいくつかできていた。
細かな治りかけの切り傷も認められたが、それ以外いたって健常そのものだった。
「クソ」
「ほんとさ、まったく。
絵本の挿絵にそっくりじゃないか!」
あの絵本の挿絵じゃ、“うつくしき人々”は西洋人だった。ブロンドだったぜ。
「そういうことを言ってるんじゃない、ナモタッサ!
はやくそいつの頭を吹っ飛ばすんだ!
そして、小屋に帰って寝る。
一昼夜は寝ろ」
寝てどうするよ?
ゆうべたっぷり寝たぞ。
寝たとこで、なにが解決するってんだ?
「君の状態は良くなるだろ?」
どういうこった?
何が言いたい?
「わからないのか?
“戦巫女ナモタッサ・バガヴァドー”、君の心は揺れている。
君のような女が、恐れ慄いてるんだぞ!
いまの君にはー」
少年と目が合った。
永遠に閉じていると思われた彼の目はいつのまにかパッチリと開き、ナモタッサを見つめ返していた。
彼女は散弾銃の引き金に指をかけた。マズルは先程から、少年の眉間のあたりにぴったりと押し当てられていた。
なんてこった。
あってはならないことだ。
死人と会話するのに夢中で、現状の変化を見逃してしまったとは。
世にも希少なガラス玉のようだった少年の瞳には生気がやどり、続いてキョロキョロとせわしなくあたりを見回し始めた。
男のくせにまつ毛が長く、しかも上にくりん!とカールしている。
下まぶたには、女たちが面相筆を使って一生懸命に何本もの線を引く場所に、何もしなくても立派な下まつ毛が、目尻に向かうほど濃く長く生え揃っていた。
ルンだったらそれを見てこう言ったことだろう。
「わぁ、うらやましいんだ!」
少年のせわしなく動く瞳は、いまナモタッサをみつめ、続いて自らの額に押し当てられた散弾銃の銃身をみつめ、またナモタッサをみつめ、そしてただひたすら恐怖と当惑のためにか、揺れ動いていた。
すべての主導権はナモタッサにあるにも関わらず、彼女は自分自身がひどくまずい膠着状態に陥ったと感じた。
「死んだものにトドメを刺すと思って撃てばよかった。
そうすれば、罪悪感なんて覚えずに済んだんだ。
君は臆したんだ!
昔、あんなに君は呪文のように俺たちをどやしつけてた癖に。
「臆するな、容赦するな、情けをかけるな」って!」
丘陵地帯に、風が吹き抜けた。
ナモタッサは散弾銃の引き金にかけた指に力を入れた。
少年は観念したように瞼を固く閉じるものかと思われた。
しかし、実際にはそんなことはなく、彼の瞳は次に起こることへの期待と好奇心でより大きく膨れ上がるものとさえ思われた。
ナモタッサ自身にとっても驚くべきことに、彼女は引き金を引いて厄介ごとにひとつケリをつけるかわりに、散弾銃を持つ手を降ろした。
少年はしばらくキョトンとしており、やがて自分が撃たれる危険がなくなったことを悟ったのか、自分の身体の各所に力を込めて、動かそうと試み始めた。手の指を軽く曲げ伸ばししたのち、自分の上体を支えるために、平手を芝の地面に押し付けて、そこに体重をのせた。
片方の脚を引き摺るように折り曲げて、やはり地面を踏み締め、上体を起こそうと力を込めた。
そういった一連の試みを、ナモタッサは慌てるわけでもなく、ただ落ち着いて見守った。
手に持つ散弾銃の重みを楽しむように、かすかにブラブラさせて、もう片方の手は軽く膝に当てがっていた。
はたから見れば、まるきり油断しているように見えるこの体勢からでも、その気になればコンマ数秒という神速で少年を撃つことができる。
そうしないのは、ひとえにこのなり行きを見届けるためのように思われた。
すっかり上体を起こした少年は、ひび割れた唇をぱくぱくさせて、何やらせききったように喋りはじめた。
この土地のことばではないことは明らかだったが、それにしても特異な響きの言語だった。
メロディがほとんどなく、あえて抑揚を排した詠唱の仕方をする“ヴィンドバ”の経典のごとく、ひとつひとつの子音を口の中にぶつけるように喋っている。
「シンガキ、」「ボク、オーダン、」「プリウス…、」
どれが名詞で、どれが動詞なのか見当もつかない。
しばしの間、ナモタッサは瞬きもせずにそれを聴いていた。
念仏がどこで終わりになるのかわからなかったし、そもそも、他人がこうして肉体と声を持って何事か話をしているのをきくのが、これほど奇妙で新鮮なことだとは思わなかったからだ。
ナモタッサは、その身に不快な熱を感じた。
まさか自分が人生の中で生まれて初めて、「あがり症」を経験していることなど知る由もなかった。
そうやって少年はひとしきり口をパクパクさせて、ジェスチャー混じりに決して伝わることのない熱弁を振るったあと、いまいちどナモタッサに向き直って視点を定めた。
彼は瞳の中に、ナモタッサがいままで出会った男たちにも飽きるほど見出してきた、あの熱情の光をたたえて、彼女に両腕を差し出した。
「キミ、ドクシン?」
フフッという笑みが、ナモタッサの口から漏れた。
それに気づいて、彼女自身、慌てて表情を引き締めた。
少年はその一瞬の表情を見逃さなかったようで、キラリと光る大きな瞳に、やや得意気な気遅れした笑みを添えた。
ナモタッサは、散弾銃の台尻で、少年の側頭部を鋭く殴りつけた。
少年は芝の上にばたりと倒れ、その目はガラス玉のように眼窩の中でくるりと一周したきり、緞帳のように落下した瞼の中に永遠に閉じ込められた。
丘陵地帯は晴れやかだったが、ナモタッサの世界には、いままでお馴染みだった静寂が再び訪れた。
それでもどこか世界の彼方、はるか遠くから、諦めの悪い声が、彼女の耳には切れ切れに聴こえた気がした。
「…まなら、まにあう…んだ!…いつを、うちころすんだ!」
「…ころせ!…」
“若さとは最高さ!
だって、あいつとの子供は生まれないんだから!”
〜テラナイリク最盛期の特定不能のとある年代における、ある流行歌の一節より〜