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「今日のルシールは考え事が多いね。何か心配事?」
どことなく上の空のルシールに、気遣いの声がかかる。
心配そうに首を傾げるアロイスに気付くと、ルシールの背筋がシャンと伸びた。
「い、いえ! ごめんなさい……」
「何もないならいいんだ。ゆっくりと考えることは良いことだもの。元気がないのかと心配になっただけだから」
「はい……」
ルシールの答えに、いつもの穏やかな微笑みで紅茶に口をつけるアロイス。
その優雅さと、相手への気遣いに溢れた立ち振舞いは、何らいつもと変わらない。幼い頃からずっと憧れている、大好きなアロイスそのままだ。
当然、ルシールにだって秘薬を使うことについて迷いもあるし、彼への後ろめたさも計り知れない。
しかし、事業の成功のために自分の感情を抑え込んだ彼に、少しでも心穏やかな結婚生活を送ってほしいという思いがそれを上回った。
(アロイス様の心の安寧のためなら、この先どんな結果でも受け入れる!)
……と覚悟はしたものの、もしアロイスから嫌悪を向けられたらと考えると尻込みしてしまい、先程から話を切り出すタイミングを何度も逃していた。
「………あの」
「ご歓談中、失礼致します。アロイス様」
「どうした?」
今だ、とルシールが口を開いたと同時に、邸宅の方から侍従の男性がやって来て彼に声を掛けた。
侍従としばらく耳打ちでやり取りをした後、アロイスが短く息を吐いて立ち上がった。
「すまないルシール、少し席を外すよ。お菓子を楽しんでいて」
「…………はい。いってらっしゃいませ……」
またしても切り出せなかったがそれも仕方ない。
かえって気を落ち着かせる時間が出来て良かったと、彼の背中を見送りながらひと息ついた
その様子に、背後に控えていたアンがそろりと近づいて声を掛ける。
「お嬢様、お顔の色が優れませんが……大丈夫ですか?」
「ええ、緊張しているだけよ」
「……こちら、お渡ししておきますね」
粛々とした面持ちで、アンは手提げのバスケットからキレイにラッピングされた包みを取り出して、ルシールにそっと手渡した。
「……ありがとう。いよいよ……これをお渡ししたら……」
センスのよい赤茶の包装紙と銀色の細いリボンでかわいらしく装飾された小さな包みからは、ガサガサとした質感と甘い焼き菓子の香りが感じられる。
ルシールは両手の中にある包みをじっと見つめて、よりいっそう意思を固めた。
「これを……アロイス様に……お渡ししたら」
「…………ルシール様……」
「ついに……ついに……」
「ついに……」
「…………」
「…………」
言葉少なめなルシールの真剣な表情に、傍らに控えるアンの表情もグッと引き締まる。
ルシールはしばらく包みを見つめた後、ハッとして顔を上げると、考え込むように小首を傾げ始めた。
アンはルシールからの次の言葉を待っていたが、いよいよ主人の目が泳ぎだしたのを見て、たまらずに訊ねる。
「ルシール様、ついに………、……なんです?」
「………………どうなるのかしら?」
「ん?」
「あの……、アロイス様がこれを食べたら……、どうなるんだっけ……」
鳥のさえずりとさらりと軽い葉擦れの音だけが聞こえる。
間を置いて、ぱか、と力なくアンの口が開いた。
心地よい静寂の中、あんぐりしたままの時を過ごしてようやく言葉を絞り出す。
「……『アロイス様の心を知りたい』と言ってたじゃないですか? そういうのを作ったんじゃなかったんですか?」
「私もそう思ってたのだけれど、よくよく考えてみたらはっきりと効能が書かれてなかったな、と思って」
「今さらですか!?」
ルシールは先程から懸命に記憶を辿ってみているが、それらしい記述を見た覚えがない。
『これを食べたらメロメロ』だとか『美味しくて舞い上がっちゃう』だとか、どのページもそんな言葉ばかりで、秘薬の効能について書かれている箇所はどうにも思い出せない。
「それに、……一度に食べていい量とか、術がいつ効き始めるかとか、食べ方だとか、細かい使用法が何も書かれてなかったわ……」
「いやお嬢様、クッキーですから! 食べ方って」
「いいえ、これは大切なことだわ! 何だかわからないものをアロイス様のお口に入れるわけにはいかないもの。もう少し本を読み解いてからじゃないと」
「2人とも、そんなに慌ててどうしたんだい?」
突然降ってきた声に、2人の肩がびくりと跳ねた。
頭上ではいつの間にか戻っていたアロイスが、キョトンと不思議顔で2人を覗き込んでいる。
声の主と目を合わせたルシールは、手にしていた包みを咄嗟に自分の背に隠した。彼の無垢な視線が後ろめたくて、聞かれてもいないのにしどろもどろに弁解を始める。
「あ、アロイス様これはその……違うんです! ……ええと、これはクッキーなんですが」
「そうみたいだね。甘い匂いがする」
「いえ! いや、そうなんですが……作り方を間違えたというか」
「……ルシールの手作り、ということ?」
美味しそうな匂いだ、とアロイスはチラリとルシールの背後に目線を送ると、いつものように穏やかに微笑んでいる。
その視線に期待を感じ取ったルシールは、クッキーを彼に見られてしまった事を後悔する。とにかく当たり障りなくこの場を乗り切ろうと、なんとか口を開いた。
「や、い……はい。ですがその、アロイス様にはお渡しできないというかなんというか……」
「あ、お嬢様それはマズい」
ルシールの言葉に、場の空気がひきつるように変化する。
いち早くその異変を感じ取ったアンは、あちゃーと天を仰ぎつつ、すすすと後退していく。
(だって効能がわからない秘薬を食べさせるのは危険だもの……)
ルシールは彼に聞かせられない真の理由を心の内で呟いた。その空気ががらりと変わったことにも、その元凶の視線に陰が射した事にも気付いていない。
なんとかやり過ごせないものかと考えていると、頭上から消え入りそうな声が降ってきた。
「……君の……髪色のリボンで、そんなにかわいくラッピングしてあるのに?」
「え」
ルシールが顔をあげると、そこにはいつもより数段笑みを深めたアロイスがいる。
彼の活力漲るようなその力強い表情は、あの日からルシールの脳裏に貼り付いて離れない、例のあの笑顔だ。
(やっぱり、なんていい笑顔なのかしら、好き……だけど……)
楽しさや嬉しさといったものではなく、これは……。
ルシールは目の当たりにした見事な笑顔と、そこから伝わってくる感情にものすごいギャップと違和感を感じていた。
蛇に睨まれたカエルのように固まったまま、ルシールはゴクリと息を飲む。
「君の婚約者である私を差し置いて、君が作ったクッキーを君色のラッピングで贈られるのは一体誰なんだい? その人物と一度じっくり話をしなければいけないね」
「……アロイス様、怒ってますか……って、わわわ」
ゆらりと立ち上る冷気のような気配に圧されたルシールが、身動ぎしたのをアロイスは見逃さない。そこに出来たわずかな隙間に素早く体を捻り込んだ。
アロイスがベンチの背もたれに手を着いたので、すっぽりと彼の腕の中に囲われてしまった。慣れない密着にルシールは慌てふためく。
「ひえぇ……お顔……お顔が近いです……」
「怒ってなんてないさ。君の優しさと愛らしさに寄ってきた奴等はよーく話をしてから処す必要があるからね。武者震い、といったところかな?」
「愛らしさ? 処す? 武者震い? ……う、うう……?」
「さぁ、教えてルシール。そのクッキーは誰にあげるんだい?」
「ええと……ええと……」
圧力過多の弾けんばかりの眩しい笑顔が、とうとう鼻先のところまで来たその時、限界を迎えたルシールの口が開放される。
「こっ、このクッキーは、魔女の秘薬なんです!」
◇
「アロイス様の隠された本当のお気持ちを確認するために、秘薬を使う計画を立てました。秘薬の作り方の本は、お菓子作りの本に偽装されていて、その中からクッキーを作ったのです」
「ですが、その、一度に摂取する量ですとか食べ方や食べ合わせなどなど、そういった使用上の注意が書かれていなかったのです」
「更に、このクッキー自体の効果もはっきり書いていなくて、とにかくこの秘薬を食べるとどうなってしまうか、わからなくなってしまったのです……」
おしゃべり機関銃が久方振りの復活を遂げ、騒動についての供述を続けている。
『魔女の秘薬』という思いがけない言葉に目を瞬かせたアロイスは、先程までの圧の強い笑みを消し、ルシールの独演に耳を傾けている。
「秘薬にはいろいろな種類があると聞きます。アロイス様が空を飛んだり、透明人間になったり、動物に変身したり……なんて事になっては大変です! このクッキーは私が責任を持って処分致します。大変お騒がせ致しました」
「ふむ……」
ルシールの発言が一段落した辺りで、隣でじっと話を聞いていたアロイスはふと顔を上げ、チラリと侍従に目線を送った。
黒髪モノクルの侍従は落ち着き払った様子で頷くと、テキパキと周りに指示を出す。
あっという間に人払いがなされて、2人の周りに控えるのは侍従とアンだけになってしまった。
2人の距離の近さに動揺して、いまだ目を合わせようとしないルシールに、アロイスは目元を緩ませる。
「ふふふ、久しぶりにおしゃべりな君に会えた。今日はとても良い日だね」
「わ、私ったらまた! 申し訳ありませんアロイス様! 私のペチャクチャと忙しないおしゃべりで嫌な思いをさせてしまいました」
「嫌な思いを、だなんて……あるわけがないだろう? どうしてそんなことを?」
「アロイス様が、おしゃべりがお好きではないと聞きました。私はこれまでたくさんご迷惑をお掛けしてしまったけど、これからはお気を煩わせることのないように振る舞いたいと考えたのです」
「……それは、誰かに、そう言われた?」
優しい眼差しに、ピリッと引き締まるような冷気が混じる。
それすら気付かないルシールは、更に俯いて眉根を寄せた。
「……先日の夜会で、アロイス様が『私はおしゃべりもおしゃべりにうつつを抜かす人間も好まない』と……」
「私が? ……いや、あの時確かに……そう言った。……あの場にいたんだね?」
その言葉と共に、ルシールを囲う腕が離れた。
そこに感じられていた彼のぬくもりが急激に冷めていく。
現実を突き付けられているようで、ルシールは重石が乗せられたような気持ちに襲われる。
しかし、まだ落ち込む訳にはいかない。
秘薬が使えない今、アロイスが快適に過ごせるように、2人のこれからについての話を詰めなくてはならない。
意を決してルシールが顔を上げると、アロイスは顎に手をかけてなにやら考え込んでいる。
「あの……アロイス様?」
「……すまないルシール……私の発言が、君に誤解を与えてしまったみたいだ」
「誤解?」
「あれはね……、そう、特別なおしゃべりというか……。なんて言ったらいいか」
アロイスは首を傾げるルシールの耳許に顔を寄せて、声を潜めた。
「あの『他愛ないおしゃべり』というのは、夜を共に過ごして男女の仲を深めようとか、一夜のお相手に誘いを掛けるときの隠語のようなものなんだ」
「男女の……仲、一夜の……!」
「君という婚約者がいるというのに、そんな誘いに乗るはずがないとわからないらしい。私がいつだって『おしゃべり』したいと思っているのは一人だけなのに」
言葉の意味に気が付いた途端、ルシールは赤くなった顔をいつかのようにシュバっと両手で顔を覆う。
やっぱり知らなかったね、とアロイスはその様子を微笑ましく眺めている。
「じゃあ、あの笑顔は」
「あぁ、あれは……作り笑顔を貼り付けておくんだ。威嚇みたいなものかな」
「威嚇……」
「怒りや嫌悪感丸わかりの顔を晒せば、簡単に足元を掬われる。……ルシールを待っているのにあの女性がしつこくて、すごくイライラしていたからね」
か細い声にアロイスがスラスラと淀みなく答える。
愛想がなく会話を苦手としていた彼が、感情を隠して相手をいなすまでになったのも、すべては愛する者との平穏な未来を守るため。
ルシールと同様に、彼もまた研鑽を重ねてきたのだ。
例の笑顔に凄まじい思いを感じ取っていたルシールは、そこに『威嚇』という言葉がぴったり当てはまり、その理由もすとんと腑に落ちた。
「あ、あの……アロイス様、本当に申し訳ありませんでした。……私の早とちりで大騒ぎしてしまい……お詫びの言葉もありません……」
この1ヶ月ほどの出来事は、まるっと全部自分の早とちりだったと気が付いたルシールは、恥ずかしいやら申し訳ないやらでアロイスの顔を見ることが出来ない。
俯いたままで謝罪を口にするルシールを宥めるアロイスは、すっかりいつもの穏やかな様相に戻っている。
「謝らないで? 君の前ではあんな嘘臭い笑顔は必要なかったものね。……ルシールが私の事を思ってくれているのがわかって嬉しいよ」
「うぅ……なんと寛大なお心……」
「ところで、私の隠された気持ちを知りたいって……どういうこと?」
お付き合い下さりありがとうございます!
次回で完結となります
よろしくお願いいたします