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それから数年たった現在、ルシールは目を見張るような成長を遂げていた。
まっすぐな性格はそのままに、美しい所作と落ち着いた立ち振舞いを習得し、あの機関車のようなおしゃべりも加減ができるようになった。
現在は学園卒業を控えて慌ただしい日々を送っているが、週一回の修練(お茶会)だけはこうして欠かさずに催されていた。
「アロイス様。……私、これまでのこと、本当に感謝しているのです」
まるで今生の別れのような感謝の言葉に、一瞬だけ目を丸くしたアロイスだが、いつものように穏やかに微笑んで婚約者を見つめている。
「……急にどうしたんだい? 改まって」
「いろいろと、思い出しておりました……。アロイス様のおかげで、私はこうしてここにいられるのですから」
「そう言うなら、私だって感謝の気持ちでいっぱいだよ。君といると……世界がキラキラと輝くんだ。君との結婚生活が……今から楽しみで仕方ない」
「そんな……ことは……」
相変わらず優しい言葉をくれるアロイスに、いつもなら嬉しさに頬を染めるルシールも、今日ばかりは貼り付けたような笑顔を返して俯くのが精一杯だ。
(私、知ってしまったんです。アロイス様が、ずっと我慢してる事を……)
◇
ひと月ほど前に開催された記念式典――――
アロイスのエスコートで初めて夜会に参加したルシールは、なぜか会場の脇にある大きな衝立の陰に一人隠れていた。
(……で、出づらい雰囲気……)
衝立の隙間から裏側をチラリと覗けば、そこには愛しの婚約者が立っている。
(こうしてこっそり見るアロイス様も素敵ね…………ではなく、あちらの女性は見たことがあるわ)
彼の目線の先では、一人の美しい女性が、眼を潤ませてじっとアロイスを見つめている。
先日観戦した馬術大会の御前試合で、ひっきりなしにアロイスへ声援を投げ掛けていた女性達の一人だと思い当たる。
化粧直しのために席を外したわずかな時間でこんなことになるなんてと、ルシールは思わず天を仰いだ。
盗み聞きなんて良くないわ! ……と思いつつも、ルシールの耳は勝手にあちら側の声を拾っていく。
「失礼。用件が済んだのならもうよいだろうか? 人を待たせているので」
あまり耳馴染みのない快活な声色に、ルシールはあら? と首を傾げる。
声の主を見れば、眩しい笑顔を湛えたアロイスが堂々とそこに立っている。ルシールが長年過ごしてきた人物とは別人のような、活気溢れる笑顔だ。
(あ、アロイス様!? え! ええ!)
普段の彼の要素を微塵も感じさせないその姿に叫びだしそうになるのをなんとか堪え、ルシールはお口チャックであちらの様子を窺う。
「もう少しよろしいではありませんか。こういう機会でもなければお逢いすることも叶いませんもの。お待たせしている方のお心は広いのでしょう? ゆっくりお話でも」
「いや、結構だ。もう行かなければ」
アロイスは笑顔ではっきり断りを入れるが、女性に引く気配は見られない。
たっぷり開いた胸元に光るネックレスを指で遊ばせながら、なおも執拗に誘いの言葉を掛けている。
「『他愛ないおしゃべり』に夢中になって夜を明かしてしまうことなどよくあることでしょう? あちらの奥のお部屋でじっくりと語りあいましょう」
「何を言われようとも、あなたに応えることはないよ」
アロイスの笑顔は力強さを増して、威圧すら感じる。
声を荒げたり厳しい言葉を投げつけたりする訳ではないのに、言葉の端々に垣間見えるのは、女性の誘いに乗らないという強い意志だ。
(いつも穏やかなアロイス様のあんなにすごい笑顔なんてはじめて………………………好き)
彼の新たな一面を発見し、興奮冷めやらぬルシールはそこから目が離せない。
アロイスは強靭な笑顔を崩さないまま、女性に向けてきっぱりと断じた。
「そもそも私は『他愛ないおしゃべり』というのは好まないんだ。それにうつつを抜かす人間もね。これ以上引き留めるなら各所に報告させていただくことになるが、いかがかな?」
「…………も、もう結構ですわ!」
アロイスの圧に恐れを成したのか、女性は狼狽えた様子でその場を立ち去った。
その姿が完全に消えるのを見届けると、アロイスは勢いよく衝立の裏側へ顔を覗かせる。
「ルシール!」
戻って来ているはずのルシールの姿を探すものの、辺りには見当たらない。
「……まだ戻っていない……か。迷っていないといいけれど」
アロイスが急いで化粧室の方向に向かうのを、ルシールは咄嗟にもぐり込んだ装飾幕の中から見つめていた。
彼の放った言葉が、あの笑顔と共にルシールの脳裏を何度も掠めて、その度にチクチクと胸が痛い。
ルシールはうわ言のように、弱々しくか細い声でその言葉を呟いた。
「アロイス様は、おしゃべりな人はお好きじゃない……?」
◇
「間違いなく、何かの間違いです」
式典の翌朝、いつも以上にぼんやりした目覚めとなったルシールは、アンに昨夜の出来事を報告する。
主からポツリポツリと打ち明けられる話全てを総括し、アンは簡潔な一言を返した。
「だって私、この耳でしっかりと聞いたのよ。アロイス様は確かにおしゃべりな人は好きじゃないって、そういったわ」
「詳しい事情はわかりませんが、あのアロイス様に限って、絶対に、絶~~~っ対に何かの間違いです。ほら、アレを見てください」
そう言って指し示したテーブルの上には、流行りの菓子店の包みや花束などが山積みに置かれている。
アンは崩れそうな贈り物の山から一つとり、ルシールへ手渡すと、呆れたような苦笑いを浮かべた。
「まだまだ贈られてきていますよ、お見舞いの品だそうです。ご本人は後日改めていらっしゃると言伝もしっかりいただいております」
贈り物には、『昨日、元気のなかった君へ』と、アロイス直筆のカードが添えられている。
「お仕事でどうしても行かなければならないと苦渋の決断をなさったようです。そこまで執……心配なさるアロイス様が、ルシール様を嫌っているなど私には信じられません」
「……アロイス様にはお見通しだったのかしら」
昨晩、ルシールはアロイスの言葉に茫然としつつも、それを彼に悟られまいと極力いつも通りに振る舞った。問題なく無事に乗り越えられたと思っていたのに。
ルシールはカードの文字を優しくなぞり、彼のことを想う。
「心の優しい方だから。長く一緒にいると、無碍にもできないのでしょう。また気を使わせてしまったわ」
いつもなら、そんな彼の行動に『鋭い洞察力! 好き!』と幸せな気持ちになるのに、気を使わせてしまった事をただ申し訳なく思うばかりだ。
長い時間を過ごしてきて、アロイスはいつだって優しく誠実だった。
恋愛のように情熱的ではないけれど、敬意と思いやりをもってルシールの事を心から大切にしてくれていると思っていたのに。
2人の関係は、彼の忍耐の上に成り立っていたのだ。
「そういうことではないと思うんですけど……」
「もちろん、表向きは我慢しているなんてわからないように振る舞っていらっしゃるから気付かなくても仕方ないわ。アロイス様がそうまでして私といるのには重要な理由があるの」
「重要な……理由?」
「それは、お家の事業のためなの。そのためにこれまできっちり耐えてこられたのよ」
おしゃべりな人間を好まない彼が我慢をして、おしゃべりの権化のようなルシールになんとか微笑みを保ちつつ付き合ってくれたのは家のため、事業のため、この政略婚姻を成立させるために他ならない。
昨晩考え抜いたルシールの出した結論がこれだ。
「えぇ? まさか」
「昨日一晩考えたらひらめいたの。元々政略的な結びつきだったんだもの。事業の成功のために私と結婚したいとお考えなのよ。嫌われていたと考えると、これまで本当によくしていただいたものだわ……」
「えぇ……」
政略婚という契約により、どれだけの人と金が動いているのかを考えないアロイスではない。
責任感の強い彼の事だ、自分の感情はひた隠しにして収めようとしているに違いない。好き、とルシールは思う。
「家業の安定のために犠牲となり、私と一緒になるというならお望み通りに、大好きなアロイスの思いを遂げていただくの!」
目を輝かせて力説するルシールとは対照的に、アンは両手で顔を覆い脱力する。
「……結果的にアロイス様の望みは叶うことになると思うんですが、腑に落ちないというか、なんでそんなややこしい事に……」
「そうね。そこが政略結婚のややこしいところだと私も思うわ。私はいいけど、嫌いなのに結婚しなくちゃならないなんて。あぁ、アロイス様……! おいたわしい好き…………」
「そういう意味じゃなくて……もしそれが事実だとして、お嬢様はそれでいいんですか?」
「もちろん! 彼の望みは私の望みでもあるわ。協力出来ることはどんどんしていくつもり。2人で事業を盛り上げる事が出来たら、愛はなくてもビジネスパートナーとしてお側にいられるでしょう?」
「しーっ! 愛はないなんて、アロイス様の前では絶っ対に言っちゃダメですよ……!」
アンは慌てふためき、人差し指を唇に当てる。
侍女という身の上のため、こんなにも拗れた主の婚約模様に思い切り踏み込めない。アンは身悶えるような思いで咳払いを一つ、キリッとルシールに向き直る。
「い、一度、アロイス様とお話しておくべきではないでしょうか?」
「わかっているわ。アロイス様がどうしたいかは、彼にしかわからないことだって」
「そ、そうですよ! だからやっぱりお話ししないと」
「結婚後もこれまでのように仲良しで通すのか、それとも婚姻後は極力関わらないように別邸で過ごすのか……。あぁ、アロイス様の心の中を覗けたらいいのに……」
「そ、そうじゃなくてぇ……」
この方の考えを止めるのは、どうも自分には荷が重い。
遠い目をしたアンはふーっと長い長い息を吐く。
「……それならなおのこと、ご本人とお話なさってください。魔女の秘薬じゃあるまいし、そんなことはできませんからね」
「……魔女?」
「ええ。私のばあ様がよく話してたんです。ばあ様が子供の頃はそこらへんに魔法が溢れてたって言いますから、そういう魔女の秘薬もあったかもしれませんけど」
ルシールがふと顔をあげ、アンの言葉にピクリと反応する。
顎に手を当て、一人真剣な面持ちで考え込む。
「秘薬………………」
◇
その翌日から、ルシールは『魔女の秘薬』についての文献を探し求めた。
国営図書館や王立博物館はもちろんのこと、魔術研究所や歴史資料館に至るまで、手当たり次第に調べ歩いた。
そしてあの日、気晴らしに訪れた学園の図書室で、あの本にたどり着いたのだった。