ムズイ(十)
端末の電源を落とし、主任はチラッと課長達の方を見た。まだ『チェス談義』をしている様だ。
いつものことなので、溜息は出ない。
それよりも、大切なことがある。
「課長、例の物、お願いしますね!」
「おう! 判ってる。判ってる」
右手をあげて答えるのを見て、主任は笑顔で二人に会釈した。『やったぁ』と口にしているのだろうか。
右手で握りしめ、小さくガッツポーズをしている。
セキュリティーゲートに近付くと勝手に開き、自動音声が響く。
『琴坂主任、お疲れ様でした』「お疲れー」
それに答え、監視カメラに手を振って、薄荷乃部屋を出た。
主任は琴坂課長に戻る。何やら顔つきまで、そんな感じだ。
いや、うーん。変わっていない。
「例の物って、何だい?」
部長が不思議そうな顔をして聞く。課長は、にっこりと笑った。
「あぁ『特別ボーナス』ですよ」
「おや、そんな物が出るのかい?」
そう言って部長は手を差し出す。その図々しさを見て、課長は笑い出した。
「えー、本吉先輩も、欲しいんですか?」
「何? 何くれんの? 孝雄ちゃん?」
二人は大学の先輩と後輩に、戻ってしまったようだ。
孝雄はちょっと周りを気にしてキョロキョロしたが、誰もいない。当たり前だ。
ここは薄荷乃部屋。そう簡単に、入れる場所じゃない。
「内緒ですよ? 『丹波の黒豆』です」
「何だね? それは?」
「美味しいお豆さんです」
きょとんとした顔で本吉は孝雄を見る。どうやら、もう少し説明が必要なようだ。
「早い話が『大豆の黒い奴』なんですよ」
「ほう。それが美味しいの?」
「余り出回っていなくて、貴重でして、
特に『丹波産』は、粒が大きくて有名です」
「へー。そうなんだ」
本吉は手を引っ込めた。
「牧夫が欲しがっていたのは、
それで作った『甘納豆』、『丹波の黒豆の甘納豆』なんです」
「凄く高いのか?」
「いえ、そうでもないです。まぁ、安くはないかなぁ」
「じゃぁ、珍しいの?」
「いえ、そうでもないです。東京では、あんまり見掛けませんけど」
本吉は眉をひそめる。何でそれが『特別ボーナス』なのだろうか。
「それが奴には『凄く貴重な物』なんですよぉ」
その笑顔を見て、本吉はピンと来た。
「ちょっと孝雄ちゃーん、何か悪いこと、したでしょぉ」
言われた孝雄は、慌てて手を振る。
「何もしてないですよぉ。ちょーっと奴からの注文を、完全にブロックして、絶対に入手不可能にしているだけですよぉ」
そう。孝雄は、牧夫が使用する全ての端末から『丹波』『黒豆』『甘納豆』を入力不可にし、万が一、ネット注文しようとした際は、さり気なく『通信障害』が起きるように、事前に仕込んであるのだ。
もちろん、取り扱い店全ての電話番号も登録されていて、交換機内で全部、孝雄の携帯番号に変換される。
だから、その度に鼻をつまんでは『只今、注文の電話が、大変込み合っております。来年まで、お待ち下さい』と、アナウンスしている。
だから、絶対にバレていないはずだ。
「孝雄ちゃん、容赦ないもんなぁ」
「嫌だなぁ。先輩程じゃ、ないですよぉ」
二人はお互いに、目をピクピクさせながら指で指し合い、「ははは」と笑った。




