ムズイ(八)
薄荷乃部屋に、安堵の空気が流れ始める。何しろ主任が手を動かし始めたのだから。
「ヘイ! 神崎朱美! そっちはどう?」
正面に四枚の大きなスクリーンがあり、左から三枚目に映る三人目の朱美に、課長が話しかけた。
「ハーイ。フランスは、今日も曇りデェース!」
そう言って笑顔で返す。特徴のある語尾。画面の下から映り込んだ手は、親指だけが立てられている。
「あー、天気は良いからぁ、中継地はどこー?」
なんだぁ、という顔をした神崎朱美が、ちょっと首を横にして、目の前にあるであろうディスプレイを凝視する。
「えっとー、東京のIXを出発して、ハワイで中継、スバル、シドニー、デンパサル、ジャカルタ、シンガポール」
中継地点をコールしているが、それを課長は制止する。
「あー、全部言わなくて良いからぁ。日が暮れるよぉ」
「そうデェースよねぇ。私もそんな気がしてましたぁ」
笑顔で見つめ合う。
「そもそもハワイで中継したんならさぁ、発信元、判ったよね?」
ちょっと笑いを押さえながら、課長が聞く。
「もちろんデェース! NJSが設置したサーバーで中継しておいて、NJSに侵入する馬鹿なんで、当然デェース!」
「OKOK。何処だったのぉ?」
課長のノリに合わせた神崎朱美が、右手をシュっと顔の前に振って止め、答える。
「ハーイ。東京デェース!」
にこやかな笑顔だ。しかし、それは求めた答えではない。
「東京、広いですよー」
「二十三区デェース!」
再問い合わせに、直ぐの返事。レスポンスが良い。
「まだ広いですよぉ」
「台東区デェース!」
二人はノリノリで会話しているが、話は一向に進まない。
「まだまだ広いですよぉ、いい加減にして下さーい」
「国立図書館・別館、貸出パソコン三号機デェース!」
ようやくまともな答えが返って来て、課長は頷く。
「どう?」
主任に確認する。ディスプレイを向いたまま頷いた。
「了解デェース!」
課長の語尾が変わる。神崎朱美の語尾が、うつってしまったのか。
「三年前の『侵入ちゃん』を、そのまんま使用している馬鹿ですね。製作者が捕まって、もうバレバレなのに。まだ使ってるんですねぇ」
主任の背中を見ても、きっと笑顔であることが判る。
「しょうがねーなぁ。一応確認するけど『母屋』には入られたの?」
ここで言う『母屋』とは、会社で実運用しているサーバ群のことだ。主任は「フッ」と吹かして、首を横に振る。
「いえ、最初っから『納屋』です。この程度じゃ、無理すよぉ」
ディスプレイを見ながら笑い、言葉を続ける。
『納屋』とは、侵入者用に用意された、検疫ネットワークのことだ。設置されているサーバ群は、全てダミーである。
「第二障壁のセキュリティーホールに食い付いて、そっから嬉しそうにコマンド叩いているのが、ログにバッチリ残ってます」
薄荷乃部屋のあちらこちらから、薄笑いが聞こえて来る。
「どんな奴?」
「ログも消せないのかぁ。だっせぇなぁ。まぁ、筆跡から見て、学生でしょうね。あ、学生ですね」
そう言って主任が『タン!』とキーボードを強打すると、『寿限無寿限無五劫のすりきれ』と流れて続けていた一番右のスクリーンに、顔写真と氏名・年齢・国籍が表示された。
「あら、もう判ったの?」
「ええ。さっき警察に通報しましたので。捕まりました」
「そうなんだ。じゃぁ、お疲れー」
課長が解決を宣言し、全員が席を立つ。課長も席を立ち、部長の所へ向かった。
「いやぁ、部長には、かないませんなぁ」
二人は揃って一番右のスクリーンを眺め、今日の戦いを振り返る。
「まだまだ、『修行』が足りないねぇ」
「はっ。精進します。今日はありがとうございました」
「おう。いつでも声、掛けてくれ」
そう言って部長は席を立つ。
「スクリーン、消しますよー」
コーラの空き缶を持った宮園武夫が、二人に声をかける。二人は揃って頷いた。
『パチン、パチン、パチン、パチン』
左から順番にスクリーンが消えて行く。
最後に『チェックメイト』のまま止まっていた『チェス対局』の映像が消えると、一旦真っ暗になる。
直ぐに蛍光灯が点いて、薄荷乃部屋は、明るくなった。




