アンダーグラウンド掃討作戦(八十七)
聞き慣れない声に『依井さん』と本名をズバリ言われて、男は振り返った。顔を見れば驚いているのは明らかだ。
無理もない。ここは軍人ばかりが、しかも将校だけが訪れるバーなのだ。その名も『陸士』である。
そんな店名のせいで、そもそも一般人は来ない。
だからこの年になれば『懐かしい顔』にも、会うことが無い訳ではない。会えば声位掛けるし、聞き覚えのある声なら勿論嬉しい。
何しろその顔触れは、『同じ釜の飯を食った仲』なのだから。
だからこそなのだ。呼び捨てならともかく、『さん付け』は無い。
それに同じ『軍人』なら『階級』は必須とも言える。
「あら。依井少佐。お久しぶりです」
「おっ、おぉ。ファルコン、元気だったかね?」
おや? 階級を付けて呼ばれても、驚きを隠せないとは。
それに、返事も不思議だが、態度も実に不思議である。
振り返って後ろになったカウンターへ両手を、ピッタリとくっ付けている。まるで『無抵抗』を表現しているのだろうか。
それとも、立ち上がろうとしてして、足が竦んでいるのか。
何れにしても、そのまま動けないようだ。
しかしそれは、ある意味やむを得ない。
何しろ目の前にいるのは、ありとあらゆる『対人工作』を教えた、かつての教え子なのだから。それも、自分よりも強かった奴。
だから、殺され掛けたことはあっても、何かを教えたことなんてない。上官だから『一応生きていられた』と言っても良い。
「はい。つつがなく。至って平和な暮らしを謳歌、しております」
にこやかに言っているが、それは嘘だ。
無意味だが『嘘発見機』に掛けても『TRUE』と表示され、嘘とは見抜けないことだろう。訓練の成果は、実に素晴らしい。
「おぉ。それは良かった。しかし、随分久し振りだねぇ」
汗をダラダラ流しながら言っているが、これも嘘だ。
無意味だが『嘘発見機』に掛けても掛けなくても、返答次第では殺されてしまうだろう。訓練の成果は、実に恐ろしい。
『あっ、失礼しました。今すぐ『大佐』にしましょうか?』
「あっ、失礼しました。今は『大佐』でしたっけ?」
先走る気持ちが、どうにも押さえられない素敵な笑顔だ。
それでも状況に変化はない。その証拠に、汗を拭こうとした『依井大佐』が、左手をピクリと動かしただけなのに、可南子の右手も反応して、ピクリと動いているではないか。
『いやいや、勘弁してよ。拭くだけ。利き手は逆の手だって』
「いやいや、勘弁してよ。今日だけ。階級は昔のままだって」
心にもない言訳をして、腕の一つも振ろうと試みるが、それだと振った腕が無くなりそうだ。両手はカウンターに付けて置こう。
「同窓会『お嬢』も来てますし、仲良く『昔話』でもしませんか?」
そうだ。ファルコンと言えども、今は退役軍人。懐かしい仲間との同窓会に、来ただけなのだ。依井大佐は笑顔で何度も何度も頷く。
「あっあぁ『昔話』ねぇ。良いねぇ。そうしようか」
「えぇ。何日か前の『昔話』をねっ!」
その瞬間、笑っているのは可南子一人だけになっていた。




