アンダーグラウンド掃討作戦(六十三)
ギャラリーが一瞬にして、静かになった。
黒井の後ろからは『クスクス』と笑う声が、耳を澄ませば聞こえて来るだろう。しかし黒井の耳には、届いてはいないようだ。
黒井の後ろでさっきから、緊張感のない動きをしている奴がいる。
そいつはもちろん、さっきまで黒井と口喧嘩をしていたジジイのことだ。つまり黒田なのであった。
そいつが今は、両手を組んで人差し指を突き立て、黒井のケツに『浣腸』をする仕草をしている。
その上で、引き抜いた四本の指を自分の鼻にあてると、いかにも『くせぇ』と変顔を見せているのだ。
まったく。緊張感も糞もない。あっ、浣腸済だった。納得。
「死ねっ!」
それは、初対面の相手に投げ掛ける言葉ではなかった。かと言って、親しい友人相手でもあり得ない。実に乱暴である。
しかし言われた本人は、そんなこと関係なかった。
今まで散々反抗して来ていてだ。今更『はい。判りました』と、死ぬ訳がなかろうと言うものだ。
『今、死のうと思っていたのに、言われたから死ぬ気がなくなった』
素直でないなら、そんな言訳も考えられなくはない。果たして黒井は何を考えて、軍曹が繰り出したパンチを眺めているのだろう。
「ガラ空きだっ!」
聞いていなかった。うん。知ってた。黒井はそんな奴だ。
加えて『何処が』とも言っていないではないか。主語の無い指摘が、果たして『忠告』又は『情け』なのか。何れにしても、見ているギャラリー達にはどうでも良いことのようだ。
闘いが始まった瞬間に静けさは吹き飛んで、歓声があがる。
以前『軍曹の闘い』を眼前で見た者ならば、黒井の姿が一瞬で消し飛んだと思ったに違いない。確かに黒井の姿が見えなくなった。
だからだろう。『ワーッ』という歓声もまた、喉ちんこ辺りまで音速で到達し、虫歯だらけの奥歯前バス停を通過。
一日一便の『歓声バス』は、掛けた前歯の隙間から、明るい食堂へと勢い良く飛び出す。フルアクセル・ノンブレーキだ。
「ワーッ」「右フック一発!」「いてっ!」「飛べっ!」
食堂の黒板、『今週のメニュー』が揺れて傾く。
一斉に歓声があがっていた。厨房の皿洗い担当が、廊下の反対側を気にしてから振り返り、カウンター越しに食堂の方を覗き込む。
残念無念。見えん。代わりに見えたのは、約一名が興奮した奴の右フックを受けて怒り、殴り返している姿だ。どけ。それじゃない。
「おぉっ!」「おぉっ!」「おぉっ!」「おぉっ!」
「おぉっ!」「おぉっ!」「おぉっ!」「おぉっ!」
一斉に声が揃って、ピタリと静かになった。
何事かと思い、皿洗いがカウンターに手を付いて、何とか覗き込もうと全身を揺すっている。手は泡だらけなのに、お構いなしだ。
ギャラリーの目の前で、沈み込んだ体勢からの『黒井の右ボディー』が、軍曹の腹にめり込んでいた。黒井、渾身の一撃である。
一方の右フックを空振りした軍曹は、下を向くとニヤリと笑った。




