ガリソン(五)
『ピンポーン』
「あ、帰ってきたっ」
最初に反応したのは優輝だ。続いてコンロの前にいた母も気が付いたのだろう。振り返って優輝の後を追ってダイニングを出た。
一人取り残された琴美は、もう一度考えた。
果たして『いつも通り』にすべきか、それとも『言われた通り』にすべきか。
一旦、素直にご飯をよそわずに皿を置いた。そして炊飯器の蓋を閉め、玄関に向った。
「おかえりなさい」
「ただいまー」
父の声が聞こえて来た。いつも通りだ。
ダイニングの扉を開け様としたが、目の前を優輝がバケツを持って通ったので開けられなかった。
どうやら廊下に立たされるのは優輝のようだ。まぁ、何かしたのだろう。それもいつも通りだ。
優輝が通り過ぎてから扉を開けると、母の影に隠れて『父の姿らしきもの』があった。
「やったー、今日はカレーか。旨そうだなー」
声を聞いて、確かに父であると判る。
しかし父は、全身レインコートに包まれ、顔も『花粉症対策』のようなお面を着けている。
いや、お面と言うより『ガスマスク』と言った方がしっくりくるのだが、一体何の『コスプレ』だろうか。
そんな恰好をして、自転車で帰ってきたのだろうか。いや、それもおかしい。それにしては手に傘を、持っているではないか。
琴美が知る限り、傘とレインコートを併用している人を見たことはない。あ、小さな子供は別として。
琴美が不思議そうに、ダイニングから顔を覗かせている。その姿が父からは見えないのか、父は突っ立ったままである。
「ありがとう。中に入って居なさい」
バケツを足元に置かれた母が、優輝に言う。あれ? 廊下に立たされる訳ではないようだ。
「はーい」
優輝が『ドン』と、琴美のおなかに飛び込んで来たので、そのまま押されてダイニングに戻された。
『バシャッ』
それは大きな水音だった。母が父にバケツの水を振り掛けたのだ。
『どういうつもりなの!』
脳内で母の声を勝手に再生する。
それはあたかも、父が浮気をして朝帰りをした所に、雑巾を絞ったバケツの水を掛けているようだった。
いや、琴美がそんな光景を実際に見た訳ではない。テレビドラマでの話しだ。
『もう一度頼むよ』
父の声が聞こえて来て琴美は焦った。何だって?
『実家に帰らせて頂きます!』
リクエストに応えてもう一度、脳内で母の声を勝手に再生する。
それにしても、壁の向こうにいる夫婦は『変態』になってしまったのだろうか。早く家に上がれば良いのに。何をしているのやら。
とりあえず琴美は、変態夫婦の会話は聞かなかったことにして、振り返った。そこで思い出す。
優輝がバケツの水を、二つ用意していたことを。
どうやらこれは『いつものこと』だったのだ。
『父は浮気の常習犯?』
今度は琴美の脳内に、自分の声が響く。いやいや。それはない。
振り返ると優輝は、台所で冷蔵庫を覗いていた。どうやら変態夫婦のやりとりは、聞こえていなかった様だ。
琴美は少し安心した。素直な優輝は色々と影響を受け易い。
だから優輝も、父のように家庭的で優しく、そして健やかに成長して欲しいではないか。あれ?
優輝は『自分の将来』を心配されているとは、つゆとも思ってはいないのだろう。平然とした顔だ。
紙パックの牛乳を持って戻って来ると、自分の席にポンと座った。足をバタバタしながら、壁の向こうにある玄関の方を見ている。
カレーは家族全員の好物だ。優輝も待ち遠しいに違いない。
「カレーよそう?」
戸惑いを隠して、平静を装う。
「うん」
琴美の呼び掛けに優輝は、牛乳をコップに注ぎながら答えた。