顔パス(四)
「まぁ、それは良いとしてさ、琴美はどうして『雨で溶ける』をテーマにしようとしたの? そんなの常識じゃん?」
本を捲りながら楓が聞いてきた。琴美は驚く。
「だって、そんなのって、おかしくない?」「そうかなぁ」
楓は冷静だ。話を聞きながらページを捲っている。
「溶けるのって『日本人だけ』なんでしょ?」「うん」
楓が頷く。話半分な感じになっている。
「昔は溶けなかったんでしょ?」「だろうねぇ」
当たり前のことを言う琴美の言葉を、聞き流し始めた。
「おかしいと思わない?」
ちょっと強い調子で言う。琴美の質問に、楓は本から顔を上げる。
「思わないよ?」
「えっ、まぁじでぇ?」
図書館に琴美の声が響く。きょとんとした楓と、対照的だ。
楓は小学生のように驚く琴美に、諭すように話す。
「だってさ、人間は水に潜ったら、息できないじゃん?」
「ん? うん」
「それがある日さ、突然『息できる』になったら凄いと思わない?」
「凄いと思うけど」
「じゃぁ、その人のこと、調べるの?」「調べるんじゃない?」
首を傾げて琴美は答える。そんなの絶対調べるよ。
「えー?」
楓は体を仰け反らせて笑いながら、琴美を指さしている。
「楓は、調べないの?」
驚いた琴美は、逆に聞いた。
「いやいやいや、調べないよー。勘弁してよー」
本を閉じて、両手を振りながら答える。その仕草は、本当に調べないようだ。琴美は呆然としていた。
そんな琴美を見て、楓は言葉を続ける。
「そんなの、人権侵害じゃん! 絶対嫌だよぉ」
琴美は、目をパチクリして頷く。ここは、一旦頷こう。
「そ、そうかぁ」
「そうだよー。科学をそういうことに使っちゃダメだよー」
右手で太ももをパンパン叩きながら笑っている。琴美は、そんな楓に、恐る恐る聞く。
「でもさ、溶けなくなったら、みんな喜ぶんじゃない?」
そんな問いに、楓はまだ笑っている。
「いやいや、もう、溶けないじゃん?」
「え? いや、溶けるよね?」
そう言うと、楓は笑いながら上を指さす。
「屋根あるじゃん?」「あるけどさぁ」
琴美は苦笑いする。そういうことじゃないんだけど。
「じゃぁ、良いじゃん!」
そう言って楓は、閉じた本を本棚に戻す。まだ笑っている。
琴美は思っていた。何かこの世界の人は、おかしい。
凄く楽観的だ。そして凄く大人しい。まるで、何もトラブルを経験したことがないような。そんな感じ。
「一応、論文の著者だけメモったからさ、後で調べよっ」
楓が自分の頭をツンツンして言っている。そう言われて、琴美は思わず頷いた。
しまった、自分は何も覚えていなかった。何だかんだ言って、楓も琴美に協力してくれている。有難い。
「きっとさ、『雨で溶ける』代わりにさ、『何かを得た』んだよ」
先に歩き始めた楓が振り返り、ボーっとしている琴美に諭す。琴美はそんなこと、考えたこともなかった。
「何だと思う?」
琴美が真顔で聞くものだから、楓は笑う。
「そんなの、判る訳ないジャン!」
そう言うと、セキュリティーを越えて扉の向こうに消える。
「ちょっと待ってよー!」
話の途中だったのに。琴美はIDカードをかざす。
『ピッ。暗証番号に『777』を足した数を入力して下さい』
「えーっ、そう来たかっ。あーもうっ!」
そう言いながら琴美は、ロックを解除して楓を追い掛ける。
楓は扉が開く音がしても、笑いながら止まらずに、振り返るだけ。
「遅いよー」「今回は『足し算』だったんだよぉ」
琴美の苦情も、笑って聞き流す。楓はそんなセキュリティなんて知らないし、やりたくもない。
「なかなか、楽しそうだねぇ」
「楽しかないヨ!」
二人は笑いながら、次のセキュリティに向かっていた。




