顔パス(三)
図書館で琴美は、本を探している。
図書館だから『本』があるのは当たり前なのであるが、最近の図書館は『CD』や『DVD』を始めとしたデジタル情報も、取り扱っている。
もちろん顔パスで利用可能である。
昔はサイズ圧縮のために『マイクロフィルム』なんてものもあったのだが、今は読み取る機械が少なくなって、慌てて元に戻している最中だ。
CDもDVDも、今は機械が沢山残っているが、いずれ図書館でしかお目にかかれなくなるだろう。
そういう点から見て、紙の本はあと三百年、いや、百年は安泰だ。和紙に比べ、洋紙の寿命が思ったより短くて、今全国の図書館では、その対策について研究が進んでいる。
本棚に並ぶ本も、いずれは粉になって飛んで行くことだろう。
まぁ、和紙の本も修復が間に合わず、千年後には読めなくなってしまうのであるが。
琴美は、一冊の本を手に取って開く。昔の研究論文。探していたテーマに、近いかもしれないと思ったからだ。
『降雨後に太陽が及ぼす影響』
雨に打たれると溶けてしまうのは、常識だ。そして、太陽が『恐怖の雨』を、『恵みの雨』に還る。それも、常識だ。
小学生がいて、雨が降りそうなのにグズグズしていれば、大人は誰でもその子を、助けようとするだろう。
しかし翌日、道路にできた水溜まりを、長靴でビチャビチャやっても、顔をしかめる大人はいない。
琴美はそんな常識を、研究したかった。何故か、誰も研究していなかったからだ。不思議だった。世界中の誰も、研究していない。
それは、電子化された論文全部に対して検索を掛けたのに、一つも該当するものがなかったことで、証明できるだろう。
検索結果は正しい。だって、琴美の『水の電気分解』も、ちゃんと検索結果で表示されたし。あ、引用ゼロ。ちょっと恥ずかしい。
琴美はページを捲る度に、眉をひそめる。読みやすい論文というものは存在しない。正確であることと、読みやすいは違うのだ。
目が痛くなってきた。琴美は首をグリグリと回し、目を擦る。
どうも慣れない。この『右文字』に。しかし、そう思っているのは琴美だけのようだ。
日本語に『横書き』は存在しない。いや、正確には、『横書きは存在しなかった』である。
英字を含む文章を表記するのに、横書きを制定してまだ百年。
だから、まだ『縦書き』が主流だ。琴美が言っている『右文字』とは、『一列に一文字だけの縦書き』なのだ。
琴美が今読んでいる論文は、それの三十五段組。つまり、右から左に書かれた縦書きが、一頁に三十五段ある。
その場合の外国語は、全部カタカナで表記され、『ジエチルジチオカルバミン酸ナトリウム』とか『ナトリウムエトキシド』とかが、右から左に表記されている。
「琴美、何かあった?」
目を擦り終わると、そこには楓がいた。心配そうに眺めている。
「いや、まだ何も」
そう言って琴美は、本を閉じる。楓はその表紙を見て声を挙げた。
「何だ。関連しそうなの、あったじゃん!」
そう言って、琴美から本を取り上げた。そして目を右から左に動かしながら、ささっと読む。琴美は苦笑いする。
「読めるの?」
その問いに楓は顔を上げて笑う。
「日本人だから、当たり前だよ!」
そう言って笑われた。琴美は思わず頷く。
「ハイポ生まれのハイポ育ちには、辛かろう」
楓がまだ笑いながら、琴美を慰める。
電子書籍は『縦書き』『横書き』『右から左』『左から右』の組み合わせを、自由に選べるのだ。
「だよねー。私『スワヒリ語』、得意だからさぁ!」
適当に言って笑う。楓は笑顔から驚きの表情に変わった。
「すっごいじゃん! 今度教えてよ!」「えーっ?」
琴美からも笑顔が消えた。すると今度は、楓が笑顔になってまた本に目を向ける。
琴美は汗をかいて、呟く。
「やっべっ」




