ガリソン(四)
階段からチラリと見えたリビング。洗濯物が放り投げられていた。
それをたたむ作業が残されているのは明らかだが、琴美は逃げるように自分の部屋に入り、扉を閉めた。そしてベッドへダイブ。
やっぱり、病院のベッドとは居心地が違う。やっと帰って来た。
琴美はテレビのスイッチを入れると、いつもとは違う時間なので、好みの番組はやっていないようだ。
知らないアニメを見ている内に、そのまま眠ってしまっていた。
琴美が目を覚ましたのは、思えば夕飯の時だった。
弟の優輝が『バタン』と勢い良く扉を開けたからだ。琴美は毎度のこととは言え、驚いて飛び起きた。
「おねーちゃん、起きてぇ。ご飯だよぉ」
もう起きているって。目は擦っているけど。
「ちょっと、ノックをしなさいって、言ってるでしょ!」
優輝はもう居ない。あんにゃろうめっ。
優輝にしてみれば、母に頼まれたのは『琴美にご飯だ』と伝えること。ノックの必要性は感じていない。
まぁ、小学生ならそんなもんだ。諦めろ。
琴美はベッドの上で伸びをし、息を大きく吸い込んだ。
開け放たれた扉の向こう。下の台所に佇む『夕飯の香り』を包んだ空気を、目一杯取り入れるためだ。
「カレーだな」
一言呟いて、琴美はピョンと立ち上がった。
気が付けば、窓の外には雨が降っていて、家路を急ぐ人の姿が見えた。レインコートを被り、必死に自転車を漕いで行く人だ。
「お宅も、カレーですか?」
きっとあの人の家も、今夜はカレーなのだろう。雨の中を急ぐ理由と言えば、思い浮かぶものはそんなもんだ。
琴美はカーテンを閉めて、部屋の電気を消そうとした。しかし、部屋は既に真っ暗になっていた。どうやら部屋に入るときに、電気を点けていなかったようだ。まぁ、昼間だったし。
開けっ放しの扉から漏れる光を頼りに、琴美は自分の部屋を出た。
ダイニングへ行くと、既に四人分の食器が並んでいて、優輝がお皿にご飯をよそっている所だった。
「起きて来たのね」「うん」
「良く眠れた?」「うん」
いっちょ前に、気遣いなんてしやがって。可愛い弟め。二度頷いて琴美は、そんな優輝の手元を見た。
「誰が食べるのよ。それっ」
「あっ」
あじゃない。優輝はテレビのアニメを見ながらご飯をよそっていたので、特盛りのライスになっていた。
しかし、今良い所らしくテレビ画面から目が離せない。
「貸しなさいよぉ」
ため息も出ると言うものよ。これは姉としてフォローせざるを得ないではないか。
「うん」
素直な優輝は手を離し、テレビの前に走って行った。
こぉの『テレビっ子』めっ。まぁ、父が帰ってくるまで、テレビを堪能すると良い。フハハハハッ。
琴美はご飯を適正な量に戻すと、母に声を掛けた。
「お父さん帰ってくるの?」
すると可南子は時計を見て、手元を見ながら答える。
「そうね。さっき駅に着いたって言ってたから」「どっちの?」
琴美が両手を使い、交互に駅の方角を指す。
「近い方。雨だし」「そう」
それを聞いた琴美も時計を見て、四つ目の皿に手を伸ばした。
最寄駅から自宅まで徒歩十五分。しかし父は健康と実益を兼ねて、自転車で二つ先の駅まで行き、乗換えを一回減らしている。
今日は雨だから、自転車はお休みだろう。
「あぁ、まだよそわなくて良いわよ?」
「えっ? もう直ぐ帰って来るでしょ?」
琴美は母に聞き直して、もう一度時計を見た。
酒も飲まない家庭的な父は、夕飯の途中に帰って来ると、ネクタイを緩めながらリビングに入って来る。
そして鞄と上着をソファーの上に置き、イスに座るとネクタイを外して、それもソファーに放り投げるのだ。
一言目は大体決まっている。
「やったー、今日はカレーか。旨そうだなー」
これだ。不思議そうにしている琴美の前で、可南子が指示を出す。
「優輝、バケツに、お水二つね。お願い」「はーい」
二つ返事。アニメのエンドロールを見ながら立ち上がった。
琴美には母の指令の意味が判らないのだが、悔しいかな優輝には判っているようだ。
誰か廊下に、立たされるのだろうか?
琴美は四つ目の皿を持ったまま固まり、優輝を見送った。