ハッカー殲滅作戦(五十八)
深夜二時。別名丑三つ時。遠くで犬が泣いている。
静かな台所で、牧夫は洗い物をしていた。焼肉をした後の鉄板は、こびり付きが酷い。力を込めて磨く。
本部長と京子は、宴会が終わると早々に二階へ行ってしまった。『あとはやっときます』と、高田部長が言ったからだ。
上からギシギシと音がする。ニンニクパワーだろうか。寝ているけど、眠ってはいないのだろう。
「ほらぁ、まだ落ちていないじゃないかぁ」
高田部長が牧夫の手元を見て、呆れている。早くして欲しいものだ。顔がそう訴えている。
宴会場から汚れた食器を持って来たのに、置き場所がないではないか。キョロキョロして、まな板を退けると、そこに置いた。
「結構こびり付いているんですおぉ」
「良いから貸せっ!」
高田部長が鉄板を取り上げると、スチールウールを握る。力を込めて磨き始めた。
するとどうだろう。たちまち奇麗になって行くではないか。
「こうやるんだよぉ。よく見て置け。まったく」
ゴシゴシやりながら、視線だけ鉄板と牧夫の顔を往復させている。牧夫は口をへの字にしているだけだ。
「あと少しで落ちる所だったんですよ。きっと」
「全然落ちてないよ! お前、家で洗い物してないだろっ!」
一瞬手を止めたが、鉄板を指さして直ぐに鉄板洗いに戻る。
「はいぃ。妻が嫌がるので」
あくびをしながら答えると、高田部長がズッコケた。
「馬鹿だなぁ。お前それは『洗い物だけ』やろうとするからだよ」
「えぇ? じゃぁどうするんですか?」
鉄板を見て、洗い終わったか最終確認をしている。手の泡を水道の水でチャチャっと洗った。
「そんなのお前『今日は調理から後片付けまで、全部やります』って言えば、やらせてくれるだろうがっ。頭を使え。頭を」
そう言って高田部長が自分の頭をトントンしている。
「えぇぇ! じゃぁ、今度言ってみます」
苦笑いして答えたが、明らかに言う気はなさそうだ。
「『じゃぁ』って何だよ『じゃぁ』って。『喜んでやらせて頂きます』だろうがっ。お前、そんなんだと、可南子ちゃんに捨てられるぞ?」
鉄板をコンロの上に置きながら、寝ぼけ眼の牧夫に苦言。そして、大量の皿をシンクに入れると、スポンジに洗剤を付けて洗い始めた。
「大丈夫ですよお。家も仲良しですからぁ」
ニヤニヤして、意味深に上を指さす。しかし高田部長は笑わない。
「馬鹿。油断大敵雨あられ。蓼食う虫も好き好きって言うだろ?」
手で『すすげ』と指示する。牧夫が手を動かし始めた。
「言わないですよぉ」
のろのろ。のろのろ。口調も遅ければ手も遅い。
「言えよ。お前、ズボズボやってれば『女房は幸せ』なんて、思ってないだろうな? ちゃんと釣った魚にも餌をやるんだぞ?」
チャッチャカ、チャッチャカ、どんどん皿が洗われて積み上がる。意外にも高田部長は、家庭で料理をするようだ。
「あげてますよぉ。大福とか、水ようかんとか」
対する牧夫はキーボードより明らかに遅い仕草。
「馬鹿ッ! お前はぁ。そうじゃないだろっ!」
ピカピカ光る『食えない奴』とかだよぉ。と、苦虫を噛み潰す。
「違うんですか? 洋菓子とかですか?」
高田部長の思いは届かなかったようだ。肩が落ちる。
「駄目だこりゃ。言っとくけど、俺が仲人して『喧嘩別れした夫婦』は、一組も居ないんだからな?」
まだ『濯ぎ不足』をペチンと指摘され『どこ?』と覗く。
「へぇ。そうなんですか?」
今度は小鉢の類を濯ぎ始めた。水切り籠はそろそろ満杯だ。
「そうだよ。それに、記念すべき百組目なんだから、俺が死ぬまで夫婦でいろよ? 可南子ちゃん泣かせたら、俺がお前を殺しに行くからなっ!」
再び洗った手で牧夫を『ピッ』と指さす。その目は深夜にも関わらず、獲物を狙うような本気の眼差しだ。
しかし、それでも牧夫はヘラヘラして余裕の表情だ。洗い終わった食器を眺めている。
このまま放置しておけば、明日には乾くだろう。
すると高田部長が、乾いた布巾で皿を拭き始めた。勝手知ったる台所である。
あら。と思った牧夫が、布巾のあった付近を探したが、どうやら布巾は一枚しかないようだ。
仕方ない。高田部長にお任せだ。
「じゃぁ、お先です」
ペコリとお辞儀する。いやぁ、今日も飲んで歌って踊って飲んでだった。明日は忙しい。少しでも寝ないと。
「まだだよっ! 米研いで六時にセット!」
高田部長の指示が飛ぶ。牧夫は驚いて振り向いた。口をへの字にして、無言で『寝ましょうよ』だ。
「あと、ぬか漬け出しとけっ。茄子と胡瓜二つづつ! 早くしないと夜が明けちまうだろうがっ!」
皿を拭き、食器棚に戻しながら高田部長が指示を出す。まるで『俺がやるぞ』と、脅しているようだ。
「明日にしません?」
「もう明日になってんのぉ! 時計見てっ! 仕事はテキパキ!」
会社では聞いたことがない、真剣な口調。外した腕時計の跡を指しながら、まるで上長のように言っているではないか。
明日から『実機訓練』でしょうがぁ。寝ましょうよぉ。
言葉にはしないものの、文句たらたらの牧夫。
その振る舞いがそんなに気に入らなかったのだろうか。まるで、心の奥底をまで見透かしたようだ。
ついに高田部長が手を止め、足も止めると牧夫の目を見て静かに言う。
「お前、本部長に、恥をかかせる気か?」
牧夫は黙って米櫃の前に走った。




