ガリソン(三)
空を見上げると、どす黒い雲が近付いて来ている。
雨でも降るのだろうか。今朝の『天気予報』は忘れたが、まぁ、降るのだろう。そんな暗雲だ。
母が焦っているのはこの雲が原因か。きっと慌てふためいて、庭に洗濯物を出しっぱなしで、病院へ来てしまったのだろう。
洗濯物が雨に濡れるなんて、日常茶飯事だ。
その度に母は、碌に見てもいない天気予報に、文句を言っていた。だから、今日も言うに違いない。
琴美は口をへの字に曲げて、母の方を見た。
「そこを左です。で、次を右。いや、あぁ、そこです。はい」
だいぶカリカリしているようだ。運転手さんもお気の毒に。やはり今日も言うのだろう。いつもと同じだ。表情を見れば判る。
これは『触らぬ神に祟りなし』ですね。琴美そっと目を逸らし、窓の外に目をやった。
今朝の事故は、本当に凄かった。自分が生きていたのが不思議なくらいだ。そんなことを考え始める。
この出来事は、これからもトラウマになってしまうのだろうか。
そんなことを考えていた矢先、変な看板を見て『フッ』と笑う。タクシーが角を曲がって、いつものガソリンスタンドの前を通った時だった。
「お母さん見て。『ガリソン』だって」
琴美はガソリンスタンドに『ガリソン』と書かれているのが、面白かった。『リ』と『ソ』が逆だ。ガリソン、何?
外を見ていた可南子は、琴美の方に振り返る。次の交差点まであと十秒。時間はある。
「あら、五十三円に値下げしたのね」
琴美を見て笑顔で答えた。はい時間。前を向く。
「そこを左です。急いで下さい」
琴美が再び窓の外を見上げると、黒い雲がそこまで迫っていた。
意外なことに、自宅の庭に洗濯物は無かった。不思議だ。
母は電子マネーでピッと料金を支払うと、今度は『早く降りろ』と娘を急かす。琴美に反抗する理由はないが、不思議だ。
「ありがとうございましたー」
「短い距離ですいません。琴美、早く降りなさい!」
洗濯ものは取り込んであるのに。急かされている。
「はいはーい」
「もう、雨が降ってきちゃうでしょ!」
のん気な娘と、せっかちな母のコントの様に見えたのか、タクシーの運転手は、薄笑いを浮かべて扉を閉めると、直ぐに走り去った。
きっと煩い客だと思っていたに違いない。
可南子はのんびりと歩く娘の腕を掴んで、庭の石畳をカツカツと歩き、玄関の鍵を開ける。
「早く家の中に入りなさい!」
そう言いながら、琴美を家の中に放り投げた。
「あぶないなぁ」
琴美は声を荒げた母に、ちょっとむかついて振り返った。今退院してきた怪我人を、まるで『洗濯物』のように扱ってからに。
不機嫌な顔を母に向けた琴美だったが、直ぐに怒りを鎮めた。
そこには、さっき目覚めたときと同じ『物凄く安堵した母の顔』があったからだ。これで文句を言っては、親を心配ばかりさせる、親不孝者になってしまうではないか。
これはきっと、琴美のことを気遣ってくれた結果なのだ。そう思うしかない。不思議だ。
琴美は靴を脱ぐと、自分の部屋に行ってテレビでも見ようと思った。しかし直ぐに、母の叱責が聞こえてきた。
「こらっ。ちゃんと靴を仕舞いなさい」
その声は、普通のお叱りだ。どうやら極度のカリカリは収まったらしい。
「えぇ、お母さんしまっといてよぉ」
琴美は笑いながら振り返り、階段へと急いだ。そこには母の『仕方ないなぁ』という表情が見て取れる。琴美は階段を駆け上がった。
大丈夫。もう『いつもの母親』だ。
可南子は渋々娘の靴を持ち上げると、靴箱の中に入れた。
「もー。濡れたら、怒る癖にぃ」
どうして靴をちゃんと靴箱に入れないのか。不思議だ。
琴美に母の文句は届いていたが、不思議に思っていた。
自分はそんなことで、怒ったりはしない。